持たざる者の悪意なき嘘

先日日本を直撃した台風24号。
様々な爪痕を残して去っていったことは、記憶に新しい。

首都圏のJR在来線では、夜20:00以降の運行を取りやめる「計画運休」が行われた。
報道によると、首都圏のJR在来線でこれだけ大規模に運休を「計画する」のは初めてのことらしい。
以前から災害時の計画運休を実施しているJR西日本の対応に比べて些か急だったためか、情報を知らない乗客が散見されたほか、「翌朝は平常通りの運行を予定しています」としながらも「やっぱりダメでした」ということになり、一部の駅では入場規制を行うほどの輸送混乱が発生した。

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僕は「駅員や乗務員は嘘をつくもの」だと思っている。
人身事故が起きた時や大規模輸送障害時のアナウンスは、基本的に信用していない。
自分が聞いたエピソード、体験した状況をいくつか挙げると、これだけ思い浮かぶ。

・駅員の放送に従って始発列車を列の先頭で待っていたら、突然発車するホームが変わり列の最後尾になった

・「別のホームの列車が先に出発する」という車掌の放送に従ってそちらの列車に乗ったらなかなか発車せず、もともと乗っていた列車のほうが先に発車した

・「終点ではホームが変わりますので、次の○○方面行は次の駅でお乗り換えください。」という放送に従って降りたら、○○方面行はその駅を通過する列車だった

・「工事中で本数が少なくなっているため、迂回ルートをご利用ください」という指示に従って迂回したら、迂回ルートのほうが本数が少なかった

・「次の電車は△△行です」という放送とは異なり、電光掲示板には××行きと表示されており、実際来た電車も××行きだった。

ただし、彼らは決して乗客を騙そうとして嘘をついているのではない。
正しい情報を持っていなかったため、発信したことが嘘になってしまったのである。

先日の拙稿「デジタル・ディバイド2.0」では、現代における情報格差について述べた。
思うに、駅員や車掌などの乗務員は、このデジタル・ディバイドの最大の被害者群であると言えるだろう。


そもそも上に挙げた例が、嘘なのか間違いなのか。
判別するためには「事前に何が正しかったのか」を知っていないといけない。
もし駅員や乗務員が本当に何も知らない状態、もしくは通常時の状態をベースに情報を発信しているのであれば、それは嘘とは言い難く、単なる「間違い」だと言えるだろう。
ところが、近年ではすべての事象において「駅員や乗務員が本当に何も知らない状態」であるとは言えなくなってきた。
どちらかというと、「知らない」のではなく「適切な発信源にアクセス出来ていない」「正確な発信源から情報を得て、適切に処理できていない」状況に陥っている。

では乗客はどうなのか。
最近ではシステムの情報をそのまま配信している(と思われる)「列車走行位置情報」が提供されるようになった(例:JR西日本「列車走行位置」)。
これによって、乗客でも正確な発信源から情報を得て、適切に処理することができるようになったのである。
そのため、場合によっては「この駅員は嘘を言っているな」ということが乗客でもわかってしまう。
(ちなみに、東洋経済から「山手線は深夜も動いた!「計画運休」一部始終」なる記事が配信されたが、実は20:00以降も電車が動いていることは、列車走行位置にアプリからアクセスすれば、乗客でもなんとなく予測することは可能だった)

なぜ「乗客が取得する情報が正しく、駅員や乗務員など現場レベルが取得する情報が誤りである」状況が発生してしまうのだろうか。
考えられる原因としては、

1.駅員や乗務員が能動的に情報源にアクセスするかどうかは、その人次第である
2.現場の業務に忙しく情報取得の時間が取れないため、“いつもの”状況を元に情報を発信してしまう
3.そもそもの情報が「上層部」からの伝達であり、自らシステムにアクセスして行うものではない

が考えられる。
情報取得の姿勢よりも、現場レベルへの情報発信のやり方が問題である。
「駅員や車掌などの乗務員は、このデジタル・ディバイドの最大の被害者群である」と書いたのは、このためである。
「被害者=乗客&加害者=駅員や乗務員」という単純な構図には、到底収まらない。

ただし、被害者としての振る舞いが、若手とベテランで大きく異なるのも事実である。
ベテランは不明確なことやわからないことは、発信しない、もしくは「わからない」と述べるに留まる。
これが「適切に処理」した結果であると言えよう。
わからないことをわからないと発信することこそ、真のプロフェッショナルではないかと、僕は思う。

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ところで、今でも通用すると個人的に思っている、養老孟司氏の「バカの壁」には、「情報は不変である」と書かれている部分がある。
僕は部分だけはどうしても同意できない。
ただ、もしかしたら、「バカの壁」が書かれたときの”情報”と現代社会における“情報”は微妙に定義が異なっているのかもしれない。
「過去に発信された情報=その時の事実」と捉えれば、確かに事実は不変であるから情報も不変ということになる。
一方で、「情報=その時の状況を表現したもの」ということであれば、これを不変であると断言することはできないだろう。

そのような観点からも、新しい情報の定義に対する「デジタル・ディバイド」を与えたのが、先日の拙稿「デジタル・ディバイド2.0」であったわけだ。

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