考えることをヤめる

リワークに通い始めて早1ヶ月。

「どうしてもリワークが必要」という、当時は非情にも思える宣告からも同じくらいの時間が経っているが、今は全く抵抗なく通い続けている。

それどころか、今では「通ってよかったかな」という気持ちにもなりつつある。
やはり医院の「リワークの場で見聞きしたことは外では話さない」というルールが、自分のような被治療者・患者に安心感をもたらしているのだと思う。
そういうルールがあるからこそ、リワークの場で、他愛の無い話からリワーク通いに至った経緯など、いろいろな話が気兼ねなく、年齢や立場を超えてできる。
もっとも、これは性善説でしかないのだが。


もちろん、他にも「通ってよかったな」と思う理由はたくさんある。
その中から敢えて1つを取り上げて記事のトピックにするとすれば、
これまでは考えられなかったほど、自分のことを考える機会が与えられていることだろう。

休職するに至ってしまったのは、環境要因や人間関係も大きな理由であろうが、そもそも「なぜ休職に至るまで頑張ってしまったのか」は、自分の性格や特性を深掘りしていかないと、なかなかたどり着けない。

少しでもたどり着くために、リワーク先では様々なプログラムが用意され、そこでの自分の発言や行動に対して、精神保健福祉士の方や他の患者さんなどから、フィードバックが与えられる。
そういう第三者の評価を咀嚼して、自分なりに自分のことを考えていく。

流石に1ヶ月では、深掘りどころか浅堀りにも至っていないだろう。
それでもいろいろなことが見えてきた。
最近では「考えすぎること」が自分の中のテーマである。

「考えすぎる」と一言で書いても、悲観しすぎたり妄想しすぎるとは少し違うようである。
むしろ自分は「感情の前に思考が働く」ことに気付いた。

例えば、贔屓にしているスポーツチームが負けたとする。
多くの人は悔しさを表現すると思うが、自分はその悔しさが「なぜ負けてしまったんだろう」という分析に覆われて表立って出てこない。
勝った時の嬉しさは表現できるが、ネガティブな感情はいつもどこかに行ってしまっている気がする。

また、誰かと会話している時も常に思考が働いている気がする。
目の前の会話に加えて、+α+βくらい余計なことを考えている。
だから話に対する反応が中途半端に曖昧になったりして、相手に自分の感情や考えが読めない状況を作り出す。

ではなぜ、感情の上に思考が来てしまうのだろうか?
ここで某企業のように“なぜを繰り返す”ことで、特性や性格・特徴にあたりをつけていくわけだ。
そこから「私の仕様書」を作り上げていく。


正直、ここまでじっくりと自分のことを考えるとは思ってもいなかった。
前に書いた「自分と向き合う」というnoteは、ある意味で自分とは向き合っていなかったということになる。
本当に「自分と向き合う」のは、これからである。


ここで、今回のnoteのタイトルに戻るが、「考えすぎること」が特性のヒントになるとわかった以上、四六時中自分と向き合ってしまっては、矛盾が発生してしまう。
そこで、思考を働かせる時間を少しでも減らして、脳を休めることを意識してみようと思う。
「休めていない」というのは、リワーク先で行ったクレペリン検査の結果からも明らかになった。

こういう細かなところから、色々な自分を試して、またフィードバックを貰いつつ直していく。
リワークは、自分探しの場でもある。

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