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正解を自分で与える力

教育改革実践家で、奈良市立一条高校の前校長である藤原和博氏は、自身の著書で「情報編集力」の大切さを説いていた。
これからの時代、決まった正解を求める「情報処理力」よりも、正解のない問題に対して“解”を求める力が必要となる、というのが氏の論調だ。

日本の教育現場のアップデートは、実に緩やかだと感じる。
メジャーバージョンアップと言えるものは、戦後間もない頃から行われていない気すらする。
もちろん、電子黒板が導入されたり、部活動にちゃんと休みが与えられたりと、小さな変化はあるのだが、それをメジャーバージョンアップと呼ぶには、ショボい。

年齢が上がると、正解がない問題に直面することが多い。
いや、正確には「誰かが正解を与える問題」に直面する。
いわゆる“学校”に行っている間の正解は、とても客観的で、誰かが与えるものではない。
1+1の正解が2であることや、漢字の正誤は、なにも担任の先生が決めることではないし、跳び箱を6段跳べたかどうかは、その事実が判定してくれる。

社会に出るとそうもいかない。
例えば、見積書などの書類の承認・決裁(=正解)は、上司が与えるものだし、プレゼン内容の良し悪しは、その時のオーディエンスが判断する。
結局、自分がやったことが正解がどうかを、誰かの主観が判断することが増加する。

そういう意味で、「情報編集力」は、教育現場だけでなく、実社会のありとあらゆる人間に必要になっているということである。
「誰かの正解」を見極める力というか、うまく正解を探っていく力というか。

ただ、「誰かの正解」ばかりを追い求めると、それはそれは疲弊する。
自分の意思は削がれ、「誰かの正解」を見極めることばかりが得意になる。
そうすると、今度は「自分の正解」がわからなくなる。
「誰かの正解」を追い求めすぎたせいで、それが見当たらないときに「自分の正解」を出せなくなってしまう。

皮肉にも、世の中には「誰のための正解なのか分からない行動」がたくさんあるように思える。
必要以上に家事や育児に打ち込む妻、仕事を頑張りすぎる父…
あれもやらなきゃこれもやらなきゃと、正解がないものばかりを追い求めていくと、最終的には誰も望まない正解に堕ちてしまう。


もしかしたら、現代人に必要なのは「正解を自分で与える力」なのではないだろうか。
このnoteを読んでいる方が、少しでも自分に自分の正解を与えられますように。

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