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『すずめの戸締まり』ダイジンの秘密を文化人類学で紐解く

久しぶりの映画レビュー回でございます!

先日、自身のYoutubeでも大特集した新海誠最新作『すずめの戸締まり』なのですが、そこでお話した内容の補足と、個人的にしっかりとこの作品の構造を把握しておきたくて、ここに記します。

(もしご興味ありましたら、YouTubeもご覧下さい)

この記事は完全なるネタバレを含みますので、映画を鑑賞した上でのご拝読を強く勧めます。

この作品を見て、肯定的な人も否定的な人も、読んでくれて話のタネにでもなればこれ幸い。

■今作の背景にある東日本大震災

新海誠という人は『君の名は。』『天気の子』と二作のなかで、紛れもなく東日本大震災を描こうと苦悩していた作家である。

3.11と今や半ば記号化されかけている"あの日"をどう受け止め、対峙し、描くのかを、挑戦してきたことは今更ながら説明するまでもない。

そして今作『すずめの戸締まり』は、過去の二作と同じく震災を描こうと挑戦しながら、今まで以上に生々しく、直球で、そのまま東日本大震災を描いた作品であった。

そこにはお為ごかしや言い訳のない、残酷な事実を観客に叩きつけるという覚悟が伺える。

そのうえで今の日本を生きる全ての人々の日常生活を愛おしく描くことで、人間が本来持つ強さ、美しさを描き切った。

今回はこの災害映画としての『すずめの戸締まり』という視点をダイジンというキャラクターを中心に考えてみました。

この謎めいた存在を考えることで、この作品の更なる奥深さを感じて頂ければ思います。

■「うちの子になる?」という言葉とダイジン

今作のキーアニマルである猫ちゃん、通称ダイジン。

ただ厳密には猫ではなく、猫型の神様のような存在です。

このダイジンは冒頭のシーンで、すずめが知らずのうちに封印を解いてしまった"要石"でした。

最初すずめの前に現れたときには痩せ細った可哀想な姿でしたが、すずめの「うちの子になる?」の一言で、瞬時に活気を取り戻しモフモフの姿へ変わります。

このときダイジンに、何が起こっていたのでしょうか?

それはおそらく要石の役目からの解放です。

この言葉によりダイジンは、長年の要石の役目を終え、解放されたのです。

そしてこの言葉はあとから、震災直後に廃墟を彷徨うすずめへ、タマキが発した重要な言葉だということが分かります。

それは「家族になろう」という意味以上に「あなたの全てを受け入れます」という宣言でもあるのです。

前作『天気の子』で穂高が、天気を操作する力を持つ陽菜へ「晴れ女じゃなくていい、陽菜が居てくれさえすれば、ずっと雨でもいい」と彼女の晴れ女としての運命を受け入れ、それは逆説的には彼女の運命からの解放と同義です。

このことを踏まえるとダイジンは、すずめの言葉によって自身の役目から解放され、同時にすずめに対してある種の愛着を持って接するのです。

それは映画の後半でダイジンが実は、後ろ戸のナビゲーターだったことが判明することで明らかになります。

では次に、草太とダイジンと椅子の関係に話を移します。

■草太はなぜ椅子になったのか?/要石の真実

すずめの言葉により、要石の役を解かれたダイジンは次の瞬間、草太を椅子に変えてしまいます。厳密にいえば魂を椅子に転移させてしまいます。

これはなぜなのか?
なぜ草太は椅子にさせられたのでしょうか?

おそらくですが人間という存在は、それ自体では要石になれないのです。

人間は、神に到底かなわない劣る存在=神非(あら)ざる者なので、要石という神聖な物へとなり得ないのです。

これを分かりやすく説明するために、柳田國男が提唱した「ハレとケ」という文化人類学の概念の話をさせて下さい。

「ハレ」とは年中行事などでの儀式や祝祭、冠婚葬祭など特別な日のことです。

それは非日常を意味しており、同時に神事の場、その瞬間において神が下りてくる、日常から人々が解放される時間として解釈されます(“晴れ着”などの語源でもあります)。

対して「ケ」は日常のことで、その世界は人の営みそのものです。

つまり「ハレ」は人智を越えた領域という概念があり、「ケ」はその真逆で神聖性のない人間界を意味しています。

実はこの概念はあらゆる宗教、神話に存在し、また多く適応できます。

神や天使、あるいは悪魔と呼ばれるものは、人智を越えた存在は「ハレ」の領域に存在しているのです。

近年の分かりやすい映画の例だと、アリ・アスター監督作の『ミッドサマー』にて奇形を持って生まれた子供を、アニミズムを信仰する集団は「預言者」として神聖化していました。

健常者の身で生まれた存在はあくまでも「ケ」の領域の者であり、奇形という特別な形で生まれた者は「ハレ」の領域に近しい存在として、尊ばれ、神聖とされるのです。

もちろんそれを真逆の価値観を適応し、邪悪/悪魔であるとして排斥したり、抹殺しようとする信仰もありますが、それはベクトルが逆なだけで「ハレ」の領域の存在に他なりません(「ハレとケ」を提唱した後に「ハレ」と真逆の概念として「ケガレ」を追加したものもあります)

この概念を当てはめると分かりやすいのですが、人間は神非ざる者の「ケ」の状態なので、神の領域である「ハレ」の場へは到達できないのです。

なので「ケ」の存在である人間の魂を一旦人間以外“何か”に移し替えなければならない。

人非ざる者へと変換するという段階を経て、初めて魂が「ハレ」の場に接近するのです。

この仕組みが分かれば、なぜ普通の人にミミズが見えず、動物(主に鳥類)にはミミズが認識できているのか?に答えが出ますし、どうしてすずめが単体でミミズの身体に触れなかったのかにも説明がつきます(椅子へと魂を移したことで神聖な状態になった草太の力が、すずめにも物理的に繋がることで作用していたから)。

さらに、すずめは常世(=あの世)に入る際には、ダイジンが付き添っていることも同じ道理だと考えられます [おそらく、幼少期は純粋な魂を持つ存在(=まだ完全にヒトではない/「ケ」の世界に浸っていない存在)だったので常世に迷い込むことができたのでは?と考えています] 。

この時点で、禍をもたらす後ろ戸を封印するための要石は、人間の魂を宿した物質でなければならない、という仮定がなりたつ訳ですが、そうなるともう一つの真実が浮き上がってきます。

それはダイジンの過去です。
人間が単体で要石になれず、魂をヒト以外に移さねばならないと仮定すると、実はダイジンは元々人間だったのではないか?ということです。

草太の祖父のセリフで「草太はこれから何年もかけて、神を宿した要石になっていく」とありますが、この言葉が要石自体に、そもそも人柱としての役割が備わっているということの証明になっているように感じます。

この物語では、地震を阻止するために奔走する男女の成長譚でありながら、その裏側には大きな禍を阻止するためには、何らかの形で人がその魂によって犠牲を払わなければならないという、重い十字架が横たわっています。

このダイジンというキャラクターに集約されているのは、これまでの歴史の中で起こったあらゆる災害によって、失われた尊き命に対する鎮魂の念ではないでしょうか?

■なぜ最終的にダイジンが犠牲になったのか?/ダイジンの中にある二面性

この映画の感想をSNSなどで見ていると「結局、草太を助けるために、ダイジンが再び要石に戻るのはどうなのか?」「人と動物の命を天秤にかけるのはナンセンスではないか?」といった内容が散見されます。

それは真っ当な批判であり、この作品の中で賛否の分かれる大きなポイントのように思います。

しかしこの映画は冒頭で書いた通り、直球で震災を描いています。
そこには全ての命が助かるというような、理想をあえて描かないことで浮かび上がる、残酷な事実と人間の傲慢さが描かれています。

それはどういった形で描かれるのか?
それこそがダイジンが再び人間のために要石になるという、ある意味で都合の良い展開です。

先ほどダイジンには、震災の犠牲になった尊き命への鎮魂の念が込められている、ということを示しましたが、それは人間だけではありません。

動物や植物、自然環境、すべての人非ざる者の魂が宿っている。草太の祖父がいった「神を宿した」存在なのです。

いま一度、2011年3月11日の震災に立ち返ると、あの大災害で被災したのは人間だけではありません。

そこで人と営みを共有していた動物や自然も同じく被災しました。

あの頃、人々が危険地域を避難してゆく中、取り残されたペットや家畜たちの命について、多くの場で議論がなされたことを思い出します。

『残されたどうぶつたち』太田康介 著

人間にとって、もはや家族同様の存在になった動物たち、そして人類が日々食糧として消費し続けなければならない家畜たちの命は、直接的に人間の世界の問題だということを改めて我々に突きつけました。

この問題が、ダイジンというキャラクターに集約されているのだと僕は考えます。

ダイジンという存在が人間のために要石として犠牲になるのは、あの震災のときに苦渋の決断で助けられなかった動物たちの命の集合体であり、同時に我々に日々消費される生命の魂の集積なのです。

すずめは、初めダイジンを可愛がりますが、途中で投げ捨ててしまうという描写があります。

その描写自体そのものが人類が動物に対し、延いては自然全体に対しての日和見がちで、傲慢な態度そのものなのです(ペットなら可愛いけど、害獣は嫌悪するといった表裏の二面性があるように)。 

なので、今作で「人と動物の命を天秤にかける」というネガティブな印象を持つのは当たり前で、あえてそれを観客に突き付けることを確信して描写しているのです。

同時にダイジンは、そんな人類に対してどのような感情があるのでしょうか?

実はこのダイジンにも二面性があると感じます。

それは人間の愛を知っていればこそ協力的になりますが、同時に人類へのささやかな復讐心にも似た意識が芽生えているということです。

「気紛れは神の本質」ということを草太が言っていますが、ダイジンが後ろ戸のナビゲーターでありながら、明確に「私は人間の見方です」と表明しないのは、そこには人間の都合によって見捨てられた数々の命が復讐を願っているかのように感じます。

しかし、このダイジンが人類に対し復讐という形で、すずめと草太を妨害し大地震を起こさせないのはなぜでしょう?

最後の最後の大事な局面において、人間の判断に任せている。

それは人間を信じているのでは決してなく、人間の力と思いが、その瞬間で及ばなければ、滅んでも仕方がないということであり、神といえど人の生き死にの瞬間には、直接干渉出来ないのです。

最終的には作劇上は、すずめの思いがダイジンに伝わり、自ら要石へと戻り、その役目を受けてくれたわけですが、それに甘んじて再び人類が過去の厄災を忘れたとき、再び後ろ戸はこの世界のどこかで開かれるのです。

◾️最後に

このように「人類が生き続ける為には、必ず何かを犠牲にし続けなければならない」という残酷な事実をこの映画は突き付けてきます。

それは全ては元通りにはならないということ、失った世界は戻らず、過去は取り消せないこと、その責任は我々にあることを教えてくれます。

なので「そんなことは分かっているし、それをわざわざ言われるのは辛い」というような批判もあることも頷けますし、それは真っ当な感想に思います。

しかし、この作品を新海誠という人は作った。
作らなければならなかったのでしょう。

それは監督自身の心の中にある“あの日”への鎮魂であり、想いを納める=閉じるという儀式だったのではないでしょうか。

そして観客は、それに付き合うことになるのですが(笑)、そこに生まれる想い、感情の渦こそが、これからの世界や身の回りの社会とどう携わってゆくのかを考えるキッカケになるには充分といえる傑作でしたし、今作から“生きる”ということの尊さを改めて教えてもらえた最高の「ハレ」映画でした!

長文、乱文、最後まで拝読いただき、ありがとうございました。

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