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語り手のすりかえと当事者性。取材と編集を考える。

語りを聞くこと

最近、取材のしかたを大きく変えた。眼前に広がっている仕事には、さまざまな声が散らばっている。高齢者福祉関係者、障がい福祉の当事者や家族、支援者、災害被災者、マイノリティ支援者、セカンドキャリアに踏み出す女性、あるいは企業人。Macのディスプレイに映っているテキストは、すべて誰かのナラティブで、それを毎日読んで、整えている。そして、それらの多くは、他でもない自分自身が企画したことで聞きに行っていることになる。

これまでは、半構造化面接に近いかたちで進めることが多かった。簡単なインタビューシートを事前共有するとか、メール等で取材内容と目的を伝えておくとか、あとは割と話の流れにあわせて臨機応変に質問する。一定の計画性をもって、取材をする。多くのライターや編集者が同じことをしていると思う。

話したいことを話せているのだろうか

果たして、聞きたいことを聞けているだろうか。と、取材の都度に疑うのはライターの常だろう。でも、そうではなくて、インタビュイーが話したいことを話せているだろうか、と問うたことはどれくらいあるだろうか。

なにか自分が好きに企画したメディアなら好きにすればいい。けれど、商業的なライティングの多くは、目的があって、その目的に応じた答えを話してくれる人をキャスティングする。つまり、企画時点から語りは操作されている。実際の取材現場でどれだけ傾聴に努めても、である。

これまでは短い時間で親しくなること、心理的安全性が確保されているような状況をつくること、初対面ながらも多少は話の分かる人と信頼されること、つまり語り手との距離感を調整することで、相手が話しやすく、そしてこちらから尋ねやすくしようとしていた。しかし、これは傾聴のスキルではない。語りを恣意的に操作するスキルだと感じるようになった。

語りは複雑であり、その複雑性をそのまま受け止めるべきである。

ある取材での失敗

ある電話取材の依頼を受けた。高齢者福祉にまつわる取材で、介護現場の声を聞くというものだった。常々、仕事でかかわりのある社会福祉の分野では、障がい者福祉のほうがやや接点が多く、ソーシャルワークにかかわる人たちの明るさにはげまされることが多かった。数多くの課題がある社会でも、さまざまなことを肯定したり、受容する風土に刺激を受けていた。しかし、これが非当事者の欺瞞と油断である。

「現場のポジティブな声を聞く」という仕事上の目的があり、そういった声を聞けるかたを紹介された。さまざまな制約があり、電話の取材になった。語っていただけるまで時間がかかった。やりがいを聞いても、これから介護の仕事に就く人へのメッセージを聞いても、ただただ疲弊している、辞めたいと繰り返し思っていると仰っていた。それに対して、ポジティブな声を少しでも拾わなければと私は取材を続けた。それは、語り手の感情や状況を無視することであり、無視はある種の否定である。ソーシャルワークは対人業務であり、人格性と仕事が緊密であるから、私はその人の人格を否定したのと変わらない。

結果、取材目的の事情上、都合のよい場所を切り取らざるをえない仕事になった。取材の失敗というよりも、仕事の失敗である。広告的な虚構にナラティブを持ち込もうとした企画の失敗である。人の語りを扱う人間として、断固として取材の依頼を断ることが正解だったのだろう。

取材という構造の問題

取材のしかたを変えたという話に戻る。取材対象と取材者という関係性、構造そのものに問題がある。仕事上、インタビューシートと取材概要は必要であるが、もはやそういったことにこだわって、話を聞いたり、話をしてもらうことをやめようとしている。傾聴の態度としても、そもそもがオーバーリアクション気味だったのではないだろうかと疑うようになった。

・話が逸れたときに、話を戻さない。
・距離感を縮めるための芝居(自己演出)を打たない。
・相づちは大切、でも最低限に。
・沈黙を恐れない。
・取材目的を半分忘れて、相手の人格とライフストーリーに関心を抱く。
・ふと出た大切な言葉をいじらない、広げない。そのままそっと記録する。
・机にあっても不自然ではないスマホで録音する。
・生理的、身体的な余白をもつ。

ナラティブの収集が目的ではないから、あくまで仕事として成立させる必要はある。果たして、成立するのか。難しいけれど、多分、成立する。と、今年に入ってから感じている。とにかく人の語りには、すべてに必然性があり、コンテクストがある。そこにはそこに登場人物がいる。あなたは、わたしは、その登場人物ではない。あなたは、わたしは、その語り手ではない。感情移入するのはよくても、あなたは非当事者という当事者性を自覚しなければならない。媒介者にはなっても、翻訳者や代弁者になることを傲慢と思わなければならない。それは編集者としての編集技能からの逃避ではない。

ちなみに、生理的、身体的な余白をもつ、と書いたのは、他愛もないことである。お腹が鳴ってもいい、トイレに行ってもいい、体調の不良をさらっと言える、そんなゆとり。二日酔いで、あるいは寝不足で、とか。適度な、身体的な自己開示にゆとりがあること。もちろん、適度な。精神的な緊張だけでなくて、身体的な緊張も傾聴における大きな変数ではないだろうか。

話すことの、あるいは自己開示することによる気づき

取材という行為のネガティブな部分を指摘ばかりした。しかし、傾聴の姿勢によって、話者の心理的状況あるいは主体性は変容する。構造的で操作的な取材よりも、自由に話し、取材者と語り手がフラットな関係を実現できたとき、語り手としての主体性が増すからである。社会的なペルソナでテンプレートを話すことに慣れている人もいるが、非構造的なインタビューによって、ペルソナが剥がれ落ちる瞬間、語り手自身が実存と向き合うことになり、社会生活のなかで気づかないことに気づくこともある。話すという行為の本質を社会的な行為と決めつけることのリスクがここにある。

あるいは、取材者と語り手が完全にフラットになり、構造が崩れると、それは対話になる。それもまたひとつのかたちかもしれないし、取材という機会をとおして、人格がきりむすび、相互に変容が起きることもあっていい。ただ、あくまで傾聴という点においては、観察者と共感者(あるいは感受者)のあわいに身を置き、あくまで聞き手であり、非当事者性を自覚することが大切だろうと思う。

語りの編集という矛盾

ライターや編集者が取材の次に直面するのが、「書くこと」である。パロールからエクリチュールへ。語りをどう文字にするか。私は研究者ではないので、再三述べているように、ある商業的なあるいは組織的な目的をもって、人の語りを編集しなければならない。前述のとおり、どうしてもそれ自体に構造的な問題を抱えながらではあるが、そのなかで「語り」の当事者性を殺さないかが主題となる。基本的には、語りを他者が文字にすることで、語りは殺される。

語りの死

語りを文章にすることで、話しことばが含むあらゆる情報や性質は抹殺される。非言語的な情報を言語化するとしたら、それは書き手の主観と表現によるものであり、それが語りに干渉するためにフィクションになる。そして、当然、非言語的な情報を言語化することの目的は、語りへの干渉であるから、そもそも語りは殺される運命にある。ノンフィクション小説やルポルタージュを思い出してほしい。書き手は、臨場感を伝えようと筆を尽くす。それによって、読み手は世界に没入する。書き手は虚構をとおして真実に迫ろうと挑戦するが、真実は必ず死ぬ(そして、それ自体に善悪はない)。

どうすればよいのか。どうしようもない。語りを殺すことを自覚して、編集を行なうしかない。それくらい、人の生きた語りを文字にし、編集するというのは、業が深い行為である。しかし、一方で、文字だから伝えられることも多い。文字だから伝わることもあるかもしれない。語りの死と同時に、書くことへの信頼が必要になる。それを頼りに、手探りで語りを文字にしていくことになる。語りを書くことは、蘇生ではなく、再生成であり、語りの蘇生は虚構である

「分かりやすさ」の嘘と、寄り添いの程度

私たち書き手が直面するのは、「分かりやすさ」の壁である。伝える、読み手とコミュニケーションする、という点において、話者性の複雑性を分解し、再構築しなければならない。

より分かりやすく、より広い人に、より短い時間で理解できるように。書き手は社会的なオブセッションに取り巻かれている。と言うと、社会構造的な問題のように聞こえるが、これはあらゆる関係者による暗黙の共犯である。語り手も聞き手も書き手もすべてが加担している。語りの複雑性をそのまま受け止めることが傾聴であることはすでに述べた。

しかし、伝わらなければ意味がない。そして、伝わらないことを読み手の責任ばかりにするわけにはいかない。私たちは、語り手に寄り添うべきなのか、読み手に寄り添うべきなのか、どちらなのだろうか。

とても難しい。しかし、おそらく、私たちは語り手に寄り添わなければならない

結句、寄り添いの程度の問題ではある。しかし、語りの真正性が損なわれると判断したら、必ず複雑なものは複雑なまま伝えたほうがよい。分かりにくいことは、分かりにくいから、分かりにくい。仕事として文字数に制限があるなら、それは連載にするべきだし、その文字数にすることを諦めるべきである。書き手も読み手も思考や混乱を迫られてよいのではないだろうか。他者への関心を失ってしまった読み手は、もはや読み手ではないのかもしれないから。

ただ、自明のこととして、語りは語りであって、書き手の巧拙にかかわらず、書かれた時点でそれは一度死ぬ。死んだ魚を料理としては出せない。食べられるかたちにはすることが編集だとは思う。蘇生はできないけれど、調理如何によって、その魚の特性をよりよく伝えることはできる。その試みを諦めることは、書くことへの信頼を捨てることになる。

語り手と書き手あるいは聞き手、その間に横たわっている溝は、自己と他者の間にある埋まらない溝と同じものである。その溝は決して埋まらない。共感や感情移入はできても、当事者にはなれない。その溝に橋を架けることもできない。その暗い溝に落ち込んで、あがきながら、大きな声を出したり、奇声を発したり、光をちらつかせたり、試行錯誤することが、書くことへの信頼ではないだろうか。つまり、書くことへの信頼は、他者を理解することの難しさを自覚したうえで、他者を信頼するという人間信頼のうえに成り立っているのかもしれない。

当事者性のすりかえと、代弁者の欺瞞

フェミニズムと当事者性

私はこの3年ほど、とことんフェミニズムに、とりわけ上野千鶴子先生的マルクス主義的フェミニズムに傾倒している。これはおおいに傾聴の姿勢と関係している。当事者性の問題である。

フェミニズムは誰のものか、という議論に答えは出ないが、男性がフェミニストになることはできる。こういう言いかたは誤解を招くかもしれないけれど、生まれた瞬間から構造的に体制側であることの自覚がその出発点である。「私は女性を応援する」態度が男性のフェミニストではない。そして、ジェンダーにまつわるあらゆるイシューにおいては、なにかしら自身も当事者である(少なくとも男性という当事者である)。「ally(アライ/仲間)」という言葉はきわめて安全で使いやすい危惧がある一方で、少なくとも非当事者性を自認するという点で正確な言葉だと思う。

私は、社会的な男性性そのものに加害者性と暴力性が備わっていると考えている。たとえば、平和主義で異性に暴力をふるわず、きわめて共感力が高い「やさしい男性」が、それだけでいかに暴力的であることか。

当事者性の希釈

体制との闘争の主体者は女性である。男であるかぎり、共に抗い議論することはできても、当事者性を獲得することはできない。男は女が闘争する権利すら社会的に奪うのか、ということになる。前世代的な議論で言うまでもなく、男による承認はフェミニズムの求める帰結ではない。

さて、繰り返すようだが、ライターや編集者、取材者すなわち「書き手」がいかに共感しようとも、当事者にはなれない。しかし、フェミニズムやその他のマイノリティ性がどんどん一般化されるなかで、語り手の声が代弁されることが多くなった。「それは私かもしれない」という重要な気づきの一方で、当事者性の獲得そのものが目的になることが増えたのかもしれない。ジェンダーの問題だけではなく、「私もマイノリティである」ことの自認が自己承認の手段になると、当事者性はどんどん希釈されていく。

たとえば、「繊細さん」「HSP診断」に共感が寄せられ、これらはいまやSNSのバズワードになった。そして、その声の多くは他者理解よりも自己理解のフリをした自己承認に偏っているのではないか。マイノリティの言説が一般化されていくことによって、マジョリティの加害者性が際立っていく。すると、加害者でありたくないという心理から、マイノリティのアイデンティティを獲得したくなる。そのニーズに応える言葉や概念がたくさん用意されるようになった。これは例であって、HSPという概念を否定するものではないが、これはある種の規律訓練ではないだろうか。

語り手のすりかえ

本当の当事者のナラティブは、誰かの代弁によって、薄まっていく。それ自体の重みは変わらないのに、相対的に薄められていく。そして、無自覚な代弁が広まるにつれ、それは加速していく。言説の一般化によって、賛同の拡大によって、解釈者が増える。理解者が増える。非当事者の共感者が増える。怒りも悲しみも喜びも、その人のものであって、書き手のものではない。語り手はいつのまにかすり替わっているかもしれない。書き手がナラティブを奪うことは、たとえば、語りを過剰に編集することは、当事者の主権を蹂躙していることにほかならない。

自分はなにかの当事者である。そして、なにかの当事者ではない「非当事者という当事者である」ことの自覚が書き手の責任である。

それが傾聴の姿勢にも通じるはずだし、語りを編集するという矛盾と向き合うことにもつながるはずだと思う。

私は語り手のすりかえに加担したくない。

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