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冷たい男 第4話〜束の間の死〜(6)

 父の傷は、一向に治る気配はなかった。
 顔に出来た痣も裂傷も塞がることなく、出血も止まらない。そして痛みもまるで変わらないと言っていた。
 幼い老婆は、父を医者に連れて行くも「それは酷いなあ」と軟膏を塗られ、包帯を巻かれ「その内治るよ」と言われら高い金を取られるだけだった。
 しかし、父の傷は良くなることはなかった。
 現在でも・・・。

 冷たい男は、驚愕して横たわる父を見る。
「この傷って・・まさか」
「戦争の時のものよ。その頃から1ミリも治ってないわ」
 老婆は、苦痛に顔を歪め、目を閉じる。
「父は、私の前では絶対に痛いとは言わなかった。わそれどころか笑いながらお前をもう大丈夫と言っていいた。そして働かないといけないから、と血の流れる傷を泥で固めて塞いでバレないように厚着をして仕事に行った」
 老婆、着物の裾を握り締める。
「父は、私を育てる為に懸命に働いたわ。あの爆撃によって自分の船を失ったから海に出ることは出来なくなったから他の漁船に乗せて雇われ漁師として海に出たの。幸い誰も父の傷のことに触れることはなかった。あの時代、決して癒えない傷を抱えているのは父だけではなかった。身体にしろ心にしろ誰もが傷を抱えていた。そんなだから漁師仲間や近所の人はよく食べ物や着る物なんかを分けてくれたし、父が漁に出ている間は私の面倒なんかも見てくれた。戦後だと言うのに贅沢なくらい平穏な生活だったと思う」
 冷たい男の頬が少し緩む。
「いい人たちに恵まれたんですね」
「ええっ本当に。私の人生において戦争を起こした人間以上に悪い人はいなかったわ」
 老婆の口からさらりと出た重すぎる言葉に冷たい男は、喉を詰まらす。
「私は、近所の人に面倒を見てもらってる時も学校に言ってる時も気がついたら海を見ていた。父が無事に帰ってくるのを祈っていた」
「そうですよね。海に出てもし何かあったら・・」
 しかし、老婆は首を横に振る。
「そうじゃないわ。父が死ぬことなんて考えたことはない。父には死ぬ為の寿命がないのだから決して死なない。私が心配していたのは父が怪我をしてくること。父の傷は決して治らないのだから」

 父の傷は古かろうが新しかろうが決して治ることはなかった。包丁で皮膚を薄く切って血が滲まめばその血はずっと滲め出て、瘤が出来ればずっと膨らんで熱を持ったまま。もし骨なんて折ろうとのなら一生痛くて動かすことができないだろう。
 だから幼い老婆は家での危険なことは全て自分がやった。料理だろうが洗濯だろうが重いものを運ぶだろうが全てやった。父は手伝おうしたが全て拒否した。
 これ以上、自分の為に父にはいらない痛みを背負って欲しくなかったから。
 側から見ると父は働きはするねど幼い娘をこき使う非道な父親に映ったことだろう。だからこそ近所の人や漁師仲間も必要以上にこの親子の面倒を見てくれたのだろうと思う。

 本当のことなど誰にも話せないし、分かっても貰えないだろうから。

 しかし、そんな幼い老婆の苦労も虚しく父は傷を負った。

 漁で網を引けば手の皮が破れる。
 虫に刺されれば掻き傷が出来る。
 喧嘩に巻き込まれて痣が出来る。

 人が傷を負わないなんて不可能なのだ。

 傷を負う度に父は身を縮めて疼くまり、固いものを飲み込むように生唾を飲んで堪えた。
 決して苦鳴を上げることなく、幼い老婆に大丈夫だと笑いかけ、頭を撫でた。

 大丈夫なわけがない!

 幼い老婆は、叫びたかったが出来なかった。
 それをしたら父の思いを傷つけるから。
 肉体以外の傷を父に負わせたくない。
 だから老婆も良かったと言って笑った。

 そして年月が経ち、老婆は幼女から少女に、そして女性へと成長した。
 父は、全く老けなかったが顔の傷のせいで誰もその事を気にしなかった。
 そして老婆が二十歳を過ぎた頃、事件が起きる。

 父が海難事故に巻き込まれたのだ。

                   つづく
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