明〜ジャノメ姫と金色の黒狼〜第9話 汚泥(3)
空が艶やかに蠢く。
この時期特有の重い雲が青空を隠し、今にでも雑巾を絞るように雨が降りそうだ。しかし、青猿が深緑の双眸で見つめるのはそれではない。
青猿が見つめるのは思い雲の荒波を荒れ狂うように泳ぐ青と赤の2匹の巨大な魚であった。
遥か上空にいるはずなのにその巨大な身体は変身したツキや自分と同じくらいにあるように見える。つまり本来はもっと大きいのだ。そしてその巨体を今にも落ちてきそうな程に猫の額の近くまで鱗のある身体を蠢かし、尾をバタつかせ、鱗を鳴らし、暴れ狂う。
青猿は、ツキの屋敷の居間の窓から顔を顰めてその光景を見る。
「運がないですね」
キーの高い子どものような声が青猿の耳に入る。
声の方を向くとずんぐりとした体型をし、2本の耳を剣のようにピンっと立てた赤い目の大きな白兎、オモチが立っていた。
オモチを見て青猿は、深緑の目を大きく瞬かせる。
「お前、元に戻ったのか⁉︎」
昨日の死闘でオモチは、巨人を召喚する大きな魔法を使い、魔力を根こそぎ奪われ、針金のように痩せ細っていたはずだ。枯れた魔力はいずれは戻るにしても一晩では流石に無理なはず。
青猿が驚きを隠せずにいると、それに気づいたオモチは、表情は変わらないが照れくさそうに後頭部を掻く。
「いやーっ青猿様が献上下さった果物、大量の魔力を込めて育てられていたみたいですね。食べていたらいつの間にか元に戻ってました」
確かに、青猿の国で育てている果物は青猿の魔力の恩恵を帯びた土と独自の製法で育ててるから多少の魔力は取り込んでいるかもしれない。取り込んでいるかもしれないが・・・。
「どんだけ食ったんだお前?」
腐ることを視野に入れて持ってきたのは確か1週間分ほど。ウグイスが運んだのは一食分。てことは・・。
オモチは、青猿の問いには答えず、表情を変えずに笑って腹を摩った。
そしてつぶらな赤い目で窓の外を見る。
「まさか今日が竜魚の繁殖期に当たるなんて」
竜魚とは、この付近の遥か空の上を飛んでいる青と赤色の鱗を持った巨大な空飛ぶ魚のことだ。進化の過程で竜になり損ねたとされるこの種は普段は人の視力で見えるところまで降りてくることはなく、成層圏と呼ばれる遥か上空を優雅に漂っているだけだが、繁殖期であるこの時期になると上空から降りてきて互いの身体を重ね、子孫を作るのに全勢力を上げて臨むのだ。
ちなみに青い鱗が雄、赤い鱗が雌だ。
その間は、いつ巨大な身体が降り落ちて猫の額を叩きつけるか分からないので下手な動きはしないのが通例だ。
「タイミングのいいことで」
青猿は、ぼそりっと呟く。
「そうですね。何も青猿様の出発する朝に降りてこなくても」
オモチもふうっと息を吐く。
青猿とオモチの考えていたことは少しズレがあるのだが敢えて正そうとはしなかった。
「まあ、昼過ぎくらいには終わると思いますけど」
「ああっ息子達には今連絡した。昨日の話しを伝えたら自分達で動くからゆっくり帰ってきてくれだとさ」
昨日の話しとは白蛇の国と邪教によって拐かされたとされる青猿の国の子供たちが邪教の神殿のどこかに幽閉されているのではないかと言うものだ。
息子たちは、「何故、思い至らなかったのだろう」と声を上げ、直ぐに隠密部隊を組織すると息巻いていた。
「お前ら程じゃないが息子達も優秀だ。私が帰るまでには解決するだろう」
オモチは、表情こそ変えないが驚いたようにこちらを見やる。
「帰らないのですか?」
「お前、あんなのがいる中で私に帰れと言うのか?」
青猿は、左手を持ち上げて背中越しに窓の外を指差す。
「私に怪我しろ、と?」
「いや、彼らが大地まで落ちてくることなんて滅多にありませんし、それこそ貴方様なら問題なく帰れるでしょう?」
オモチは、訳が分からないと言わんばかりに鼻をヒクヒク動かす。
オモチの言葉を青猿は否定しなかった。
確かに恐れる必要なんてない。
竜魚が落ちてきたところで青猿にとってはそれ程の弊害ではない。傷つけるつもりはないが攻撃してきたら逆に反撃をするのみだ。
しかし、今の青猿にはそれを理由にしてでも残る必要があった。
カシャンッ。
甲高く何かが割れる音が居間に響く。
「ああっごめんなさい」
アケは、慌てて落として粉々に割れた皿を拾おうとする。
「危ないですよ奥方様」
カワセミが慌てて駆け寄り、しゃがみ込む。
「お怪我はありませんか?」
「うんっ大丈夫」
カワセミは、指先に緑色の小さな魔法陣を展開する。と、小さな弱い旋風が巻き起こって散らばった破片を集め渦の中に飲み込む。
「捨ててきます」
指先を動かして旋風を宙に持ち上げ、自身も立ち上がると居間から出ていく。
居間の中はひどい状態であった。
棚の上に整頓して並べられていた飾りは全て絨毯の上に落ち、柱時計のガラスは開いて振り子が外れそうになっていり、絨毯はびしょ濡れ、小窓のカーテンは外れかけ、アケが割った以外にも皿が散らばっている。
そして1番の混沌はテーブルの上だ。
朝のいつものこの時間、テーブルの上には宝石のように輝くアケの作った朝食が所狭しと並べられているのに今日はまさに地獄絵であった。
黒く炭化したご飯、泥色のみそ汁、焦げて穴の空いた岩魚、形が崩れるどころか溶けた卵焼き、そのままの形の大根おろし、そして紫色に変色した緑茶・・・。
「アケ・・・」
ウグイスが心配そうになって声をかけるがアケは散らばった食器を片付けることに意識を奪われ、声が届いていない。
これらの惨状を生み出したのは誰であろうアケであった。
夜明け前、一度飛び出してから戻ってきたアケ。
しかし、その奇行はまるで変わらなかった。
釜戸からは黒煙が昇り、物を運べば落とすだけでなく、周りにもぶつかってドミノのように倒してしまう。テーブルを拭けば水浸しに、カーテンを開ければ破け、ついには料理が料理ですら無くなった。まるで神から腕を取り上げられたのではないかと思うほどにひどい惨状となっている。
どのような角度から見ようとしてもいつものアケらしくない、いや、アケではないのではないかと疑いたくなるくらいおかしい。
「やはりどこか具合が悪いのではないか?」
ツキは、ゆっくりと近寄り、アケと視線を合わせるように膝を付く。
アケの蛇の目が大きく震え、表情が青ざめる。
「しゅ・・・主人?」
いつもなら「ツキだ!」と返すところだが今朝の反応を見てその言葉を飲み込む。
「調子が悪いのなら言ってくれ」
ツキは、黄金の双眸を不安げに揺らす。
「あれからやはり熱が出たのではないか?それともどこか痛いのか?」
ツキの口から溢れるアケを労り、心配する言葉。
しかし、その言葉が出る度にアケの顔色はさらに青ざめていく。
「あ・・・ひ・・」
アケの口から声にならない言葉が漏れる。
ツキは、黄金の双眸を細める。
やはり具合が悪いのだ。
そう判断したツキは、アケを寝室に連れて行こうと右手を伸ばす。
その瞬間、アケの両手がツキの手を掴む。
突然の妻の行動にツキは黄金の双眸を見開く。
「しゅ・・・しゅしゅしゅ・・主人!」
さきの潰れたヤカンのように乱れた音を上げながらアケは、顔を上げる。
ひどいくらいに青ざめ、固くなっている。
「しゅ・・しゅ・・主人」
アケは、震えながら自分の顔をツキの顔に近づけていく。
(えっ今⁉︎)
アケの行動にウグイスは、動揺する。
こんな天がひっくり返って落ちてくるような最悪のタイミングで⁉︎
ウグイスは、思わず止めに入ろうとする。
しかし、ウグイスが止める寸前にアケの顔は止まる。
「あっ・・・」
アケの蛇の目が震える。
ツキは、眉根を寄せ、黄金の双眸でアケを睨んでいた。
実際にはアケの突然な行動の意味が分からず怪訝な表情を浮かべていただけだが、アケにはそうは見えなかった。
アケの両手がツキの手から滑り落ち、濡れた絨毯の上に腰を落とす。
アケの全身が震える。
「い・・や・・」
アケの唇が震え、声が出て漏れる。
そして次の瞬間、アケは勢い良く立ち上がるとそのまま居間を飛び出していった。
呆然とするツキ。
慌てて追いかけるウグイスとアズキ。
そんな様子を睨見てつけるように見る青猿。
オモチは、表情を変えずに左頬を掻く。
「アケ様・・どうされたんでしょう?」
オモチは、首を傾げる。
「白兎・・」
「はいっ?」
青猿に呼ばれ、振り返る。
青猿の双眸が大きく揺らめく。
「ちょっと教えて欲しいことがある。娘についてだ」
娘?
オモチは、さらに首を傾げた。
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