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明〜ジャノメ姫と金色の黒狼〜第9話 汚泥(1)

 夜が明けると同時にアケと胸に抱かれた火猪ひのししのアズキは、ウグイスとカワセミの家から住み慣れた屋敷へと戻り、自分のもう仕事場とも言うべき厨へと向かう。
 全ての戸を閉じられた厨は、ひっそりとして肌寒い。小窓の隙間から薄い灯りが溢れてくる。
 アケは、小窓と外に繋がる扉を開けて冷気の含んだ空気を入れて換気する。そして外に出て薪を取ってきて釜戸の中に放り込む。羽釜に米を入れて丁寧に洗って水に浸し、味噌汁の材料を刻み、干していた魚を持ってきて網に並べる。
 さあ、火おこしだとアケは、床に寝そべって二度寝しているアズキに声をかける。
「アズキー。お願い」
 アケの声にアズキは、くりっとした目を開けて起き上がる。小さな身体をくーっと伸ばす仕草がとても可愛らしい。
 アズキは、寝ぼけ眼のままに釜戸に近づき、薪に火をつけようと背中を橙色に光らせて・・止めた。
 アケは、蛇の目を顰める。
「どうしたの?早く火をつけて?」
 アケは、アズキにお願いする。
 しかし、アズキは、何もしない。
 それでいて困ったような目でアケを見る。
 アケは、尚更訝しむ。
 アズキがアケの言うことを聞いてくれないなんて初めてだ。
「どうしたの?調子が悪い?」
 ひょっとして昨夜の戦いで"癒しの炎"なんて言う奇跡とも言える術を使ったことで体調の不良が出ているのか?
 だとしたらオモチに見てもらわないと、と思ったが見た感じアズキは調子悪そうに見えない。むしろ元気そのものと言った感じだ。
 アズキは、つぶらな目を釜戸の中に向ける。
 ひょっとして虫か何かが釜戸の中にいるのだろうか?アケは、恐る恐る釜戸の中を覗いて・・絶句する。
 釜戸の中に入っていたもの、それは畑の肥料にしようと思い取っておいた大根や人参、牛蒡などの痛んだ野菜クズ・・生ゴミであった。
 アケは、驚きのあまりその場に尻餅をついてしまう。
「えっ・・えっ?」
 アケは、驚きのあまり声を失う。
 アズキが心配そうにアケを見上げる。
 アケは、仕込み台に掴まって何とか身体を起こし、立ち上がると再び絶句する。
 羽釜の中で水に浸かっていたのは米ではなく大量の大豆と小豆。
 味噌汁の材料にと切っていたのは作り置きの羊羹と寒天。
 そして干し魚と思って並べていたのは落ち葉や枯れ枝であった。
 アケは、思わずよろけ、しゃがみ込んで両手を顔を覆う。
 アズキは、驚いて小さく飛び跳ね、アケの周りをクルクル回る。
「・・だっだ・・大丈夫だよ・・・アズキ・・」
 アケは、動揺しつつもアズキを安心させようと頭を撫でる。
 しかし、それでもアズキは心配そうに目を潤ませる。
 そこに・・・。
「お帰りアケ」
 聞こえてきた声にアケの心臓は飛び出すのではないかと言わんばかりに跳ね上がる。
 両頬がアズキの背中のように熱を帯びていく。
 顔を上げると厨の入り口の前に長い髪の野生味のある整った顔立ちの黄金の双眸を携えた青年が微笑を浮かべて立っていた。
「主人・・・」
「ツキだ!」
 ツキは、脊椎反射のように言葉を返す。
 アケは、ビクッと身体を震わせる。
 ツキは、顔を曇らせ、黄金の双眸を顰める。
「どうした?顔色が悪いぞ」
 ツキは、ゆっくりと、しかし優雅な足取りでアケに近寄ると身を屈めてアケの顔を覗き込む。
 アケの蛇の目が大きく見開き、口から「ひっ」と小さな悲鳴が上がる。
 ツキは、さらに顔を顰める。
 こんな妻の反応は初めてだ。
 いつもは声をかければ嬉しそうに笑いながら「主人!」と走り寄ってくるのに今日はまるで違う。なんか化け物にでもあったかのように怯えている・・・いや怯えているのとも少し違う。
「ひょっとして具合が悪いのか?」
 ツキは、アケの蛇の目の横の額に指を当てる。
 蛇の目がツキの指先を追って動き、触れるとびくりっと身体を震わせる。
「熱は特にないな・・」
 ツキは、尚更わからないと言わんばかりにアケの額から指先を離す。
「ひょっとしてウグイスと青猿と話しこんで夜更かしでもしたか?確か大人の階段を登る勉強だったか?」
"大人の階段を登る勉強"
 その言葉ワードが出た瞬間、アケの全身が真っ赤に燃え上がった。
「もし具合が良くないなら朝餉の支度はいいぞ。あいつらは勝手に食べるから。それよりも少し休め」
 そう言ってツキは、アケの手を握ろうする。
 しかし、アケはその手を引っ込める。
 ツキは、黄金の目を見開く。
「しゅ・・主人・・」
 引っ込められたアケの手がツキの頬に置かれる。
「主人・・・」
 アケは、頬を赤らめてツキを呼ぶ。
「なんだ?どうした?」
 ツキは、訝しみつつも訊く。
 しかし、アケは答えない。
 それ以上、行動を起こそうともしない。
「言いたいことがあるなら早く言え」
 アケのよく分からない態度と行動にツキは珍しく語気を強めてしまう。
 その瞬間、アケの表情が青ざめ、固まる。
 身体が小刻みに震える。
「い・・や・・・」
「アケ?」
 ツキは、眉を顰めてアケに手を伸ばす。
 しかし、アケはその手を思い切り払いのける。
 驚くツキ。
 アケは、ツキを弾くように立ち上がると厨から飛び出していった。 
 呆然とするツキ。
 慌てて追いかけていくアズキ。
 いつの間にかツキの背後にマンチェアを纏った金髪の美しい女性、家精シルキーのアヤメが立っていた。
「あらあら。相当お勉強が刺激的だったのかしら?」
 アヤメは、面白そうに目を細めて喉を鳴らすように笑う。
 ツキは、意味が分からずアケの出ていった扉を見つめる。
 アヤメの言葉は見事に的を得ていた。
 アケのあり得ない失敗、そして奇行の原因は昨日の大人の階段の勉強にあったのだ。
 それが昨夜のこと・・・。

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