『市民政府論』を読んで
自らの備忘も兼ねつつ、ブックレビューをアップする。
今回は私が大学生のころに記載した古典、『市民政府論』について記載をしてみる。
光文社版も岩波文庫版もそれぞれ良さがあるんだと思う。確か私は大学図書館にあった1968年版の岩波文庫から出た市民政府論を読んだ記憶がある。学生の時分に書いたレビュー(というか感想)が以下。
あの頃は情報セキュリティなんて接点がまるでなく、国家論とか法律とか、大局的にものを見る、みたいなそういう感じの青臭い学生だった(遠い目)。もう一度読み直すかなぁ。
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言わずと知れた政治学の古典。
社会契約説を発展させただとか、名誉革命を擁護、アメリカ独立革命の理論的支柱なんて高校の教科書でも説明されることも多いのではないだろうか。
まあ予備知識はこれまでの教育の中で何となくつけてきたわけで、やはり読みやすい本だった。
○所有権
私にとっていちばん興味深かったのが、所有権の部分。
今の民法の大原則の中にも「所有権絶対の原則」などというのはあるけど、ロックは所有権の淵源を労働に求めている。
労働によって、つまり自然状態では共有だったモノに対して人間が手を加えることによってそれはその人間の所有物になるとしている。例えば土地についていえば、未開墾のままの状態でほっておいても何も、誰も得をしないので、神はそれを望まないだろう。土地を耕し、収穫したものについては労働をした人の所有物とすることで人間は豊かになるし、神の御心にもかなうということなのだろう。
また所有権で一番重要なのは土地に対する所有であると同時に述べている。土地に関しても同様に所有権を得ることができる。
もちろんそれには限度があって「自分の用に供しうる範囲」ともしている。つまり自分では処理しきれないほど果実を持っていたとしたら、それは所有権は主張できないということなのだろう。
しかし、価値を蓄えることができる貨幣が登場してきたことによって事態は変わってくる。貨幣はその共同体の中でその価値が認められている限り、永続性を持つ。そうなると貨幣と例えば土地などとが交換できるようになるため、文字通りその事物に対して労働をしていなくても所有権を得られる事態が発生してくる。ここでの所有権の淵源は労働ではなく、お互いの同意・契約に求められるだろう。
このように個人個人の同意から所有権が確定していき、結果として国家と国家のやり取りによって所有権が確定していったとロックは述べているのだ。
私としては労働が所有権の淵源となるっていうのは少々乱暴な気がする。例えば、イギリスがアメリカ新大陸に植民した際にはまさにこのような理論でイギリス移民が土地を獲得していったわけだけど、その際言ってみれば化外の民として扱われたネイティブアメリカンは土地を追われたわけである。これって自分のコミュニティの外にある人間のことについて考えていないのではないか(ちなみに日本の民法だと占有+一定の時間ということになるのかな)。
ただこのような労働を持ち上げるような言説というのは確実に資本主義に結び付いていったんだろうなぁとも思った。まさにプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神であろうか。
もう一点所有権に絡めたことで、ロックは政治社会、政府の目的として所有権の保障としているのに対して、アメリカ独立宣言ではそこのところを幸福追求権の尊重としていると、巻末の解説で触れていた。
これは政府(ここでは国家と言ってしまってもいいのであろうか)の求められている役割が変わってきたということなのだろうか。より大きな政府になっていたということなのか、或いはより一般民衆の立場に国家は根ざすべきと考えられるようになったからなのか。もうちょっと考えて見ても面白そうだ。
○自由・平等
所有権以外の部分だとやはり王権神授説の批判、そして自由主義、平等主義と思われる部分が目に付く。
特に父権論の部分では、(もちろん親に対して尊敬の念を抱くべきというのは道徳上当然としたうえで)親に育てられているから親に服従すべきなのであって、統治権と父権は分けている。理性をもっているのであれば息子は自由人であり、家庭内は置いておくとしても政治上は平等であるとしている。
そして、政治社会の一員になるにはその者の同意のみが必要なのであって、親が同意したからと言って必然的に息子が同意したということにはならないとしている。
ここで疑問に思うのは、親から土地を相続した息子がいた場合に、その息子は意志表示をすることで親が所属していた政治社会から離脱することはできるのか、その際に相続した土地はどうなるのかということである。
こうして考えてみる限り、やはり国家というのは特殊な共同体の類型なのかなぁとも思ったりする。
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