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『清沢洌-外交評論の運命』を読んで

大学3年生の時に読んだ本。20歳か…若いな。当時の殴り書きメモが発掘されたので、保存も兼ねて挙げてみる。

ナショナリズムをどのように考えるか、それを乗り越えるにはどういうことが必要なのか、なんて学生の頃は青臭い議論をしていたことを思い出す。

ナショナリズムなんて、ネイションが起こってからの概念だからきっと打ち捨てられるはずと考えていたし、当時は県民性という言葉すら嫌いだった。ただ、実際問題そう簡単ではないんだろうな、と思い始めたのが大学生活の後半になってから。本書の主人公である清沢洌の物語を読んだりして、どううまく付き合っていくか、を考えるようになった。

(以下メモ)
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清沢という人物
1.基本的には自由主義者。親米派。対米開戦には一貫して反対。ただ欧州歴訪の際に自身がこれまで行ってきたような主張とは矛盾する日本を擁護する発言(持たざる国の論理、日本の対外進出を肯定)
2.国家を絶対視することを否定。
3.東亜新秩序なんて日本の価値観の押しつけである。
4.天皇、皇室を国民を統合できるシンボルとして考える。さらには自身も愛国主義的。
5.政治、外交が世論に対して迎合的であることを疑問視。

雑感
1.やはり民族というものにとらわれているが、欧州歴訪の際には「孤立無援の祖国に対してもうひとつ石を投げることがどうしてできようか」という言葉がある。
また別のところで河上清は
「日本人は本当にリベラリズムに徹底することができるだろうか」
「正を正とし、誤りを誤りと主張することが本当の国家のためになる。
だけど僕らは何か事件が起こると、一から十まで全部日本のために弁護をしてしまうんだ。誰に頼まれなくっても、感情が自然にそうさせるんだ。実に不思議だね。」
と述べている。

民族は近代になってから作られたもの、そしてその概念が戦争を引き起こしてきた面もあるのだから、民族というものを無視して全人類平等と考えていくのが理想ではある。
ただしかしこのような人間の根源から生じるのであろう祖国愛について否定するのもまたおかしい話で、
それよりかはその感情も前提として認めたうえで議論を組み立てていくのが正しいのだろう。

じゃあその民族という範囲をどこまでにするかというのはまた別の問題となる。民族に限定せずに言えば、リベラリズムの押しつけはリベラリズムではないよね。
「俺とおまえは同じ民族なんだから一緒になれよな」なんて言っているとそれは価値観の押しつけになっているわけで認められるものではない。
戦前日本の東亜新秩序は押しつけがましいし、今のアメリカの世界の警察、民主主義は普遍なんて言うのも怪しい。
ただ、「あなたとは違うんです(キリッ」 とか言う主張を無制限に認めてしまうと、ルールもへったくれもなくなって再び自然状態になるわけか。 

なのである程度のルール形成が必要。そしてそれに実効力も持たせたい。
問題はあれか、民族自決というか、これから独立したいという民族が生まれてきたらどうすべきかかな。
なので今の国の枠組みというものも見直してみることが必要なのかもしれない。そのひとつの手段というのが経済だと思うな。
いま思ったのが、同じ文化を追求するのが民族なら、同じ経済的利益を追求するグループでもまとまれるかな。たぶん結束力は文化によるほうが強いけど。
ていうと新たに全員が全員認めることができるようなシンボルを中央に置くことができたら、対立は起こらない???
だけどこれじゃあ差異は生じないわけで、別のところに差異を求めてしまえば対立は起こりうるか。だからどちらにしろ差異を乗り越えることが必要なのかなぁ。なにか「ナショナリズム」についての本でも読みたい

2.国家の絶対視の否定はリベラリストとしては当然か。
ただ、国家を絶対視することを強要することが悪いだけで、そういう人が一部にいることは別に否定していないはず。
→国家への協力との関係をどうとらえるかだなぁ。結構憲法の判例とかでもやっているけど、なんだかんだいって公共の福祉が重視されたりなんなりで国家の意向に沿うようにできているよね。

3.政治、外交と世論との関係は確かに今ホットな話題の一つ。民主主義とエリート政治の両立は成り立ちうるのか。衆愚制に陥らないための方策とは?
さっさとオルテガの『大衆の反逆』とリップマンの『世論』でも読んでいきたい。

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