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ソ連MSX物語⑫ゆけ!我が友よ、黄金の翼に乗って

1990年11月、父はKGB・ソ連国家保安委員の尋問を受けていました。場所はバクーの警察署の一室。
「貴様があのユダヤ人と昵懇の仲なのは解ってるんだ。庇い立てすると為にならんぞ。」
「私は何も知らんよ。」
父の20年来の親友ゲンナデはついにイスラエルへの亡命を決意、周囲で噂になっていたのです。父の担当する工場の副工場長はモスクワから派遣された「イタチ」とあだ名されるロシア人で、KGBの内通者であることは公然の秘密でした。この「イタチ」の密告によって父は窮地に立たされたのです。

ソ連の恐怖政治の象徴であるKGB。しかし衛星国では元来煙たがられていたこともあり、特に現地警察とは犬猿の仲となっていた。この尋問の際、地元警察官に「負けるんじゃないぞ」と激励されたという。

KGBの職員は爬虫類を思わせる目付きの陰険な男でした。彼は執拗に尋問を続けます。ソ連には人権など存在しないのでした。
「貴様が日本の最新パソコンであるMSXを奴に贈与したことは調査済みだ。」
父は憮然とした表情で
「私は業務の一環としてMSXを贈ったのだ。それをこともあろうことか奴は金欲しさに売り飛ばしたそうじゃないか。当然私の担当の検査部門からも外した。調査が古かったようだな。」
「ぐぬぬ・・・」
父の迫真の演技にKGB捜査官は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべました。1989年11月9日のベルリンの壁崩壊以降クレムリンの威信低下には歯止めがかからず、恐怖の対象であったKGBも同様だったからです。
ようやく釈放された父はカスピ海沿岸のホテルでワインを注文し、一息つきました。
「あの時先手を打って正解だったな・・・・」

カスピ海を一望できるホテルのラウンジ。父の憩いの場所だった。
1990年10月22日ゲンナデの自宅にて。息子さん達が別れの曲を演奏してくれた。

遡ること一カ月前、ゲンナデは自宅にMSXチームのメンバーを招いてもてなしたと言います。
その時彼はこう告白したのでした。
「皆には申し訳ないが私はイスラエルに亡命する。これは私の悲願なんだ。」
長い付き合いだった父は迷った末に賛同しました。
「仕方がないMSXを売れ。闇市で売ればドルに換金できるだろう」
「あのMSXは私の魂だ。それに君との友情の証でもある。」
父はゲンナデの目をじっと見つめると
「友情の証だからこそ最後まで君の役に立てて欲しいのだ。」
そう答え、黙って一万円札を渡しました。
「貰えない、それに俺はKGBにマークされている。君に迷惑を掛けたくない。」
「いいんだ。その時は飲み込んでくれ。」
とめどなく溢れる涙を拭おうともせず、ゲンナデは父の手を握りしめました。
「スパシーバ、ありがとう友よ…」

黒い一月事件の際、城壁都市バクーの遺跡に横付けされたソ連軍の歩兵戦闘車。
それまでもソ連政府への抗議デモがあったが、黒い一月事件はその中でも最大の物。
暴動や大虐○が起こらなかったのは奇跡的だったと父は回想します。

この時期父は4度目のソ連長期滞在の時期だったのですが、ソ連は確実に崩壊に向かっていました。
この約一年前1990年1月21日父がホテルで朝食を取っていると、MSXチームの一人が飛び込んできました。
「大変だ!バクー市内にソ連軍がなだれ込んで来たぞ!」
「何だって?」
これがバクー市民143人をソ連軍が虐○した黒い一月事件でした。しかしソ連軍の過酷な介入は完全に裏目に出て、アゼルバイジャンでも独立運動が過熱していきます。当日工場は蜂の巣をつついたようになり、工場長はバクー市内に抗議に行こうとする労働者を止めようと躍起になっていました。

デモに参加した人の証言によるとソ連軍の士気は低く、民衆の罵声に俯いた兵士も多かったという。かつての同胞に銃を向けることに嫌気がさしていたのだろう。
この写真でも戦闘車両の横で平然と民衆がデモを行っている。
一週間ほどでバクーは落ち着きを見せ父は市内に見学に行った。その際に乗り捨てられた数々のソ連戦闘車両を目撃し、ソ連崩壊が目前であることを確信したという。

「同志、どうしよう。」
父の担当する検査部門はMSXチームを含め50名ほどでミーティングを行っていました。父は彼らを説得します。
「絶対に早まるんじゃない、どのみちソ連の崩壊は時間の問題だ。ここで焦って暴動を起こしたらルーマニアの二の舞になるぞ。
前年1989年12月のルーマニア革命ではチャウシェスク大統領の横暴に対抗して暴動が発生。流血の革命となり多くの犠牲者が出ていました。この出来事は89年末の日本でも盛んに報道されていたのです。情報を十分に取れないバクーの人々にとって父の言葉は説得力があり、結果的に工場内での犠牲者は一人も出なかったのでした。

90-91年のアゼルバイジャンは極めて情勢が不安定だった。しかし父は普通に業務をこなし、チームMSXとバカンスを楽しみ、毎日日本への業務報告書も欠かさなかった。
どんなメンタルしてんだよ!さすがジャパニーズ・ビジネスマン😁
ゲンナデは6人の子だくさん家族。年老いた父母含め10人の脱出劇となった。
かき集めた逃走資金は父や友人のカンパを含め僅か800ドルだったという。

一方でゲンナデは着々とイスラエルへの脱出の準備に取り掛かっていました。ところが息子の一人が反対します。
「嫌だ、僕は絶対このDX100とは離れないぞ」
ゲンナデの息子の一人は弱視で音楽家志望でした。それを知った父は85年にヤマハの名機シンセサイザーDX7の廉価版DX100を贈ったのですが、息子さんは肌身離さず毎日学校に持ち込むほど気に入っていたと言います。
「父さんだって大切なMSXを売ったんだ。お前も我慢してくれ。」
DX100と別れの日、息子さんはDX100を抱いて眠ったと言います。愛機への愛着は我々以上の物があったのではと感じ入るエピソードです。

DX100は乾電池にも対応していた。息子さんは屋外や学校でも音楽を奏でていたそう。
ゲンナデの使用してたMSX・CX11とDXシリーズはデザインが統一されていた。

そして1991年の1月のある朝、ホテルの部屋を叩く音で父は目を覚ましました。
「友よ、別れを言いに来た。」
ゲンナデと父とは安全上の理由からもう会わないと約束をしていました。しかしそれを破って危険を冒してでも最後の別れを伝えにきたのでした。
「いよいよか。」
「ゴルバチョフがモスクワから海外の渡航を認めたんだ。このチャンスを逃す手はない。」
父は自分の鞄からカシオの電卓やシチズンの腕時計、愛用のパイロット万年筆を取り出しました。
「これをモスクワで売ればいくばくかの足しになるだろう。」
「君には世話になってばかりだな・・・」
「何を水臭いことを、私達は戦友じゃないか。」
「戦友・・・?」
父は静かに微笑みました
そうだ私達は20年間、ソ連という巨大な怪物と共に戦ってきた。そして今勝利したのだよ。

同時期の91年、民衆の怒りにより破壊された秘密警察の父ジェルジンスキー像
KGB本部庁舎前の光景で、ソ連と言う赤い帝国の崩壊を象徴する一枚。
ソ連共産主義と言う不合理に父は悩まされ、ゲンナデは不条理な差別に苦しんできました。二人はまさに戦友だったのです。

嗚咽するゲンナデと父は抱き合って別れを惜しみました。
さあ行くんだ友よ、私の伝えた技術を祖国のために奮ってくれ。
家族の待つ空港へ颯爽と走り出すゲンナデの後ろ姿。それは長いソ連ビジネスで最も印象深い出来事だったと父は語るのでした。

二人が青春を過ごしたバクー・キーロフ公園。
広場の中心にはソ連の革命指導者キーロフの像が見える。


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