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母が残した、大きな荷物

書き殴りの生業でございます。

北京五輪が感動のフィナーレを迎え、あまり良い話題が無い中、一筋の光明を見出せたように思う。

自分の地元も、元気づけられた事だろう。

しかし、その閉会式を複雑な思いで見ていた。

母のメンタルが悪化をし、ひどい状況だったのは、以前、書き殴った。

その影響は、私たち家族のものかのように思うが、実はそうではない。

父方の親戚にも、影響(悪影響)を与えていた。

母が調子が良かった頃、それは自分が小学、中学時代だ。

その頃は、関係が良かったのだが、高校に上がる頃に、母が異常な行動をしたり、

発言をしたり、自分達の家族は無茶苦茶になった。

その「発言」が、事の発端だった。

父方の親戚の家に行く事があったのだが、その時、母は操状態。

今になったら、何が躁で、何が鬱状態かわかるのだが、その時は知識が皆無。

操状態にあった母は、自分の貧困時代も手伝ってか、

『ここにはお金がいっぱいあって良いよね』

というような趣旨の発言をした。


もちろんお酒が入っていたとか、そういう事ではない。

それを聞いた父方の親戚は、テーブルの上にあった、コップの中の水を手に取り、

母の顔に浴びせた。

ものすごい口論になり、それ以降、絶縁になった。

それまでは、すごく良い関係を築いていたのに、一瞬の事で、取り返しのつかない事になった。

関係が断たれただけではない。

その母の息子は、この私だ。

自分が責任を取らなければならないが、高校生の自分には、どうする事も出来なかった。

素行不良は、母のメンタル疾患や貧困だけが理由ではない。

大きな目の前の問題を見たくなくて、全てに対して、また、物事に対して、

向かわないで逃げていた。

タバコを吸って、街を闊歩し、授業も受けないで、遊んでばかり居たが、

その時は、それが、自分の居場所、空間だった。

むやみに、学生時代をやり直したいと言っている訳ではなく、

学業とかも、そうだが、その取り返しのつかなくなった時間すらも、取り戻したいのだ。

なぜ家族の問題から、背けてしまったのか。

今もなお、考え事として、時間を喰われる中の一つであり、

暗い過去なのだ。

専門学校に進んでも、それは同じだった。

母は、相変わらず、奇行を繰り返しているが、そんな事は関係なく、

父方の親戚とは、冷戦状態。

そんな時に、この自分もメンタルを病んでしまうとは、情けない話だが、

カエルの子は、カエルと言われないためにも、その事は隠していた。

20歳を迎え、就職をし、行けるのかも知れないと思ったが、

すぐして、寝込み、毎日毎日、部屋の天井を見つめ、どんな終わり方をしようか、

考え、お薬の影響もあり、体重は、すでに50kg 以上増え、ほとんど別人になってしまった。

これから話すことは、ほんとのことで、その重荷は、今も続いている。


ひと時の会話。そして、別れ。


2013年の夏に、体重が少し落ち始め、運動を積極的にしていた。
(※その時、お薬は、まだまだ続いていて、ODもしていた)

その時、運動中に、公園の階段から落下をし、下がコンクリートで、

体重が凄かったため、自分の体重を、腕が、支えきれなく、

左腕の脱臼骨折をした。

骨折とは思わず、落下した後も、家に帰宅をし、1日を過ごしてしまったが、

左腕は、ほとんど動かず、ガクガクと気持ちの悪い音をたて、

不安でいっぱいになり、地元の少し大きな病院へ、自力で行ってみたところ、

緊急でレントゲンを取り、骨折がわかった。

手術も必要になり、骨接合手術をしても、左腕の可動域は、

元には戻らないが、リハビリを頑張れば、生活に、それほど支障のない所までは、
戻るだろうという話だった。

その時は、あまり大事とは思っていなく、

入院先の病院から、一度か二度ぐらい、配信を回してしまった。

手術は問題なく成功したが、

2ヶ月ぐらいは、右腕だけで、入院生活を送っていた。

2013年の秋頃だ。


偶然の一致とは、怖いもので、なんと、その頃、母も糖尿病を悪化させ、

同じ病院に入院をしていた。

私は、4階に居たのだが、エレベーターで、すぐ下の、3階に降りれば、

母がいるのだ。

そこから、奇妙な入院生活が始まった。

母は、メンタルの状態が良好で、ほぼほぼ寛解に近くなっていた。

糖尿病の影響で、歩行が困難になっていて、院内は、歩行器を使って歩いていたが、

その雰囲気は、どこか、申し訳なさもあって、まるで、大昔の母のようだった。

自分は、毎日、大量の汗をかくほど、地獄のようなリハビリを繰り返し、

半分、嫌気が差していたが、動かさなければ、左腕が使い物にならないため、

必死にやっていたが、腕の筋力が落ちていて、右腕の半分も太さが無かった。

三角巾も、鬱陶しいと思っていた頃に、最高の時間が訪れた。

リハビリに疲れると、徐に、エレベーターに乗り、下に降りて、

母に会いに行くことが少し多くなった。

あの時、母は、すごく嬉しそうな顔をしていた。

まるで、幼少期に、自分のことを守ってくれていた、母のようだった。

夜18時前(ご飯前)に、母に会いに行き、

母の今日のリハビリ結果を聞き、その後、自分のリハビリ結果を話した。

そう、1日のリハビリ成果を報告しあう、リハビリ報告会だ。

今日は、あそこまで歩けたよとか、自分は、ここまで腕が動くようになったとか、

他愛もないような事だが、二人ともメンタルが病んでからの、

ここなので、変な話だが、メンタル疾患以外で、入院をし、その病院で、

ようやく親子の会話が出来たのだ。

自分でも、随分と、珍しい体験をしているなと、思っていた。

この記事の写真にもあるように、付き合えるだけ、付き合った。

リハビリ以外にも、家に帰ったら、何がやりたいとか、

どこに行きたいとか、これからのこと。

好きな音楽のこと、好きな俳優さんのこと、何でも話した。

消灯前にも、来てくれと、携帯で言われ、エレベーターで降りて行った所、

売店で買ったジュースをくれた。

自分からすると、そんなことで、携帯するなよと言いたいところだが、

今まで、そんな関係なかった訳で、嬉しさ、気恥ずかしさ、半々といった所。

そういう状況も、終わり、自分が先に退院をした。

もちろん左腕は不完全であり、退院後も、翌年の2014年まで、

毎日リハビリ通院をしなければ行けないと言われて、頑張った。

遅れること、3ヶ月ほどして、母も退院をした。

そして、2014年の正月である。

母が、お餅を食べたいと、広袖を着て、愛用の杖を横に構え、言った。

私は、なんの疑いもなく、悪気もないままに、お餅を焼いた。

そのお餅を食べた母は、喉に詰まらせ、心停止した。

救急隊員の方が来るまで、10数分。

こちらは気が動転しているし、何も出来ず、ただただ呼びかけているだけ。

救急隊員の方が到着をし、専用の機械でお餅を取り除いたのち、

病院へ、救急車に同乗して、行った。

救急車内では、必死の心肺蘇生が行われていた。

病院へ到着する頃には、心肺が蘇生したが、20分以上も、心停止だったため、

酸素が脳に到達しておらず、

「低酸素脳症」

になった。

世間で言うところの、植物人間状態になったのである。

体中に機械をつけられ、生かされてる状態だ。いや、これが、生きていると言って良いのだろうか?と、

ずっとずっと、当時は、自問自答していた。

毎日、母に会いに行く度に、私のメンタルは崩れていった。

ついこの間まで、元気になったら、どこに行く?何する?そう話し合ったと思ったら、

今は、体を捻って、わずかに反応を示す程度になってしまい、

全てを後悔した。

学生時代に、真面目にやらなかった事も、父方の親戚関係を修復しようとしなかった事も、

自身もメンタルを病み、心配させた上に、幼少期に救ってもらった、その恩を、

仇で返してしまった事も。

全部、全部が嫌になった。

そこから、自暴自棄になった。

毎日、大量のお酒を買って、メンタルのお薬を流し込み、意識が朦朧とした状態で、

線路を歩き、踏切の前まで行った。

後、一歩だ。

後、一歩行けば、確実に、自分の人生を終わらす事が出来る。

その一歩前まで、行った。

でも、私は、出来なかった。


踏切の前で、手に持っていた、お薬の束を離して、ずっと泣いていた。

息が出来なくなるかと思うぐらいに泣いた。

もう少しで、長く続いた不遇が終わり、本当の家族が、手に入ると思ったが、

自分が母をこんなにした。

母を殺したのは、自分のような者だ。

そう、何度も思っていたが、幼少期の頃、劣悪な環境にありながら、

また、実父の暴力に耐えながら、守ってくれた命を、無碍にしても良いのか?

命とは、そもそも、自分が生み出したものではなく、

親によって、生み出される物。

自分で自分の命を絶ち、終わらす事は、あまりに自分勝手だ。

そう、思うと、踏切の一歩先には行けなかった。

ただただ、ずっと泣いていた。

左腕の手術跡が、疼いて、痛くて、頭がおかしくなりそうだったが、

まずは、ODを止めて、早く意識を元に戻し、無理な、病的な飲酒も止め、

ここから、変わろうと思った。

とにかく、絶対的に強いメンタルを作って行く必要があった。

それには、一人で立ち向かうのは、あまりに力不足で、その時点では、

竹槍を持って、鉄砲を持っている、兵隊に挑むようなものだった。

そんな時だった。


たまたま、ネットで、保健所のHPを見かけ、

先住猫のチャッピーが殺処分手前の状態で居るのを。

母は、とにかく猫が大好きだった。お婆ちゃん家にも2匹の放し飼いの、

猫が居て、真っ白な猫の「シロ」。

三毛猫の「マリ」。

どちらも、たくましい猫だった。

自分も、幼少期に、シロやマリと、いっぱい遊んでいたのは、

良く覚えている。

なので、迷わず、チャッピーを保護し、一緒に暮らし始めた。

その翌年に、生後2ヶ月のさくらを保護した。

チャッピーや、さくらの話は、また、次回しようと思うが、

この猫達のおかげで救われたし、メンタルを病んでいた自分は、

驚きの回復を見せ始め、母の事からも逃げないと決めた。


そういう時間の流れが、

3年3ヶ月

続いた。


3年3ヶ月。

3年3ヶ月の闘病の末に、うっ血性心不全で、亡くなった。

まさに、力尽きたという感じであった。

この3年3ヶ月は、一般の人の10年分はあったんじゃないかと言うぐらい、

色々あった。

その話も、また、今度したいと思うが、

この3年3ヶ月の間に、父方の親戚がお見舞いに来てくれた事は、

ただの一度もない。

久しぶりにあったのは、母のお通夜の時。

私は、体重が落ち始めていたが、それでも、今より、30kgぐらいは、

体重があった。

久しぶりに対面した時は、かなり、冷たい態度をとられたり、

素気ないことを言われた。

自分の母親が亡くなっていると言うのに、元気があるはずが無い。

悲しく無いはずがない。

やはり、関係は、元に戻らない。


母が、ふとした事で浴びせた言葉は、目の前に、乗り越えられないような、

断崖絶壁を作ってしまった感じだ。

どうにかしたい気持ちは、ある。

しかし、母は、棺の中。

母が声を発せられないのであれば、自分が、と言うような気持ちはあったが、

喧嘩をしに、ここに、みんな集まった訳ではない。

だから、冷静に、努めた。

時間は、時に、残酷だと感じる。

母は、そんな人生の終わり方をしたのだが、

人からすれば、それほどでもないと言うのかも知れない。

それでも、自分には、大きな存在であった。

母が亡くなって、5年経った訳だが、

今度は、その父方の親戚の一人が、大きな病で、それほど良くなく、

かなり悪い状態の知らせを、今日、聞いた。

北京冬季五輪が、閉会式を迎えた、この日に。

すごく、複雑な心境に、なっているのである。

恨んだりなど、そこまでには及ばないが、もし、母との関係性が良かったら?

私は、とても心配をしただろうか。

いや、それは、自分が、とても嫌だ。

自分の母が原因でも、嫌われていたとしても、命は、命だ。

命が危ういと言うならば、いかなる理由があろうとも、

心配するのが筋だ。


今は、そこに、踏み入ることが出来ない自分が居る。

もし、心配しようものなら、母を裏切ることになるのではないか?

そう言う思いもあるのだ。

消えゆく命には、様々な物語がある。

生きる道には、これから作っていく、物語がある。

今は、左腕の傷が、なぜか疼いて、久しぶりに泣いていた。

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