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祈り、その窓をぶら下げて歩く

祈りの美しさってわからない。
祈りの美しくしようという姿勢はわかる。
他人にゆだねることの快楽、なんて意地の悪い言い方をして自分の中の自分が嫌な顔をしている。祈るとき、願いを委ねるとき、あなたは素直な顔をしている。
たとえば、初詣。手を合わせながら、目を閉じてからも、目を閉じる前の世界にわたしがいることにいつも媚びてしまう。
かわいくない自分がいて、それをかわいくないと判断する、なにかおおきなものにいつも覆われていることが時に苦しくなることを、みんな書いている。それがやさしいときも、うざったいときもあって、反抗期のような青い痣が恥ずかしい。

急に真夏に突入した。
アスファルトからの照り返しで肌が焼けるようだった。家の中にいる白文鳥が少し心配になる。もちろん、クーラーはつけてきている。毎日なにかしらの文章を書きたいと思って日記を始めたのに、3日ほど離れてしまった。空中ブランコみたいにふわっと飛んでまた戻ってきた。うれしいこともかなしいことも緩やかにあって、書かなくてもいいだろうと判断されるものばかりで日々は構成されていて、それこそが果実の曲線をなぞるように美しいのだろう。
わたしはわたしを外から見てはいないからわからないけれど、そうであればいいなと思う。そういう気持ちが祈りの種にあればいいなと、思う。


23.0712

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