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茎を、切る

 貝殻にあなたがびっしりと書いた文字の、そのかたちをよく覚えている。句読点の苦手なハルらしく、まばたきほどの隙間もなく敷き詰められた言の葉のその痛みが、ただ貝殻らしくひかりながらそこにあった。私の手にいっとき乗せられて、それから海へ帰ったんだ。それからハルも帰ったんだろう。今夜はどうやってかえろうか。わたしの白い椅子を延々ひいてくれるようなやさしい少年のくるぶしを夢想して、それからは、近くの薔薇を見ていた。白い薔薇はふちのほうがもう薄ずんで、そのなくなりかけの細胞にわたしの目を少し預けていた。帰った目がわずかにあいたクローゼットの中からネイビーのワンピースを探し出して、また左側を歩きたくなる。海のない部屋の薔薇のある部屋のその突き当たりでわたしがわたしと仲良くしていた。ハルの唇に塗った紅が白い石の床にころがっている。毛足の長いラグはベッドの周りのみを覆っていた。

窓。よふけの風が吹いている。
「ひとりのからだにつかうぶんのせっけんを、あつめておいたの。このからだに、こころが迷わないでかえってこられるように、せっけんの泡が詩馬さんをずっとうんでくれるように。ぼくが預けるから。」
 深夜に帰ったハルがそこらじゅうにせっけんをばらまいて、その真ん中でほほえみながらわたしに告げたことを思い出す。もらった石鹸はかきあつめたように全部ばらばらで今朝のはつよい雨の匂いがした。
 包まれて眠る。そうすればハルの長い髪が私の中で飜るみたいで、私のなかのハルがずっと泣いていた。あの子は二十歳にもならなかった。ハルの骨ばったゆびや、ちいさな喉仏を思い出す。ハルのいた頃の記憶をいつまでもくゆらせながら、わたしは母として、息子を娘として、愛した記憶に蓋をする。キッチン鋏で、薔薇の茎を切る。断面がぬてらいて、わたしをのぞきこんだ。また、春にあいましょうか。
それからわたしも茎を、切る。

23.0715



24.0304

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