【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第73話-梅雨が来た〜母の想い

 2年前、貴志は生まれて初めてデートと言うものを経験した。告白に応えてもらえた日から世間には梅雨入り宣言が出され、翌日の初デートもあいにくの雨予報。坂木紗霧と選んだ初デートの場所は図書館だった。記念すべきその時に向けて、貴志は真剣に服装を選んでいた。
 いつもよりも入念にシャワーを浴びていた貴志に、母はピンとくるものを感じていた。
 自室から服という服を全部持ち出して、上下合わせては首をひねる息子。母は予感が確信に変わるのを感じたものだった。
 服を選び終えた貴志に、母は親指をピンと立てて送り出す。片付けは任せておけと背中に声をかけ、走り去る息子を見送った。
 
 この日貴志は心底幸せを噛み締めていた。紗霧との初デート。ドキドキしない理由など、あるはずもない。
 それに母が服装選びを手伝ってくれた。最後に決めるのは貴志だが、母からいろいろなアドバイスをもらえた。色彩のバランスや女子から見た印象などは一人で悩んでも解決しない。忙しい母に頼って、相談したのはいつぶりだっただろう。
 あの日のときめきと喜びを貴志は2年間忘れる事がなかった。

 だけど今は、ソワソワしている。勉強を教わるために訪れた福原瑞穂が、母に連れ去られてしまった。
 学校が休みの土曜日に、勉強がしたいと、男子の家に一人で来る女子。絶対に変に勘ぐっているに違いない。
 貴志の胸に不安の嵐が吹き荒れた。
 その隙を見て弟がちゃっかりと昼食を終わらせている。
「兄さん、今日も美味しかったよ。
 ところで瑞穂さんのご飯って準備してるの?」
 しているわけがない。貴志は「昼から」と時間指定していたのだから。
「1秒でも早く会いたくて、語彙力フル回転させたんだろうね」
 悟志の言葉に不安が増していくのを、貴志は感じていた。やはり客観的に見てもそう思うよな。母さん、変な事考えてなきゃいいけど。
 待っていても無駄な時間を過ごすだけ。貴志は、夕食の食材を少しずつ寄せ集めて、瑞穂のためにパスタを作ることにした。

 その頃母の部屋では、瑞穂がもみくちゃにされていた。抱きついたり、頭を顔を撫でるに撫でまくったり、とにかく好き放題にじゃれていた。
「いやあ、可愛いわ〜。もう、うちの娘にならない?」
 さらっと言われた言葉に、瑞穂が顔を赤くした。母はそれを見逃さない。
「その反応…やっぱりあなた」
 瑞穂の柔らかい頬を両の掌で挟み込み、ぷにぷにの感触を確かめながら、母は瑞穂の顔を覗き込んだ。
「ありがとね。貴志の事、ちゃんとわかってくれてるんだね」
 目を細めて笑う貴志の母を見て、貴志の優しさの理由に触れた気がした。瑞穂は心地のいいその手に、頬をいいように弄ばれながらも、心の奥から湧いてくる安らぎを覚えていた。
「ごめんね、小型犬みたいに可愛いからつい…」
 母の手で良いように弄ばれた瑞穂の髪は、これ以上ないくらいにボサボサになっていた。我に返った母はハッとして、瑞穂から手を離す。
「ちょっと待っててね、とびっきり可愛い瑞穂ちゃんに戻してあげる」

 貴志はリビングで時計を眺めてひとりごちた。
「遅いな…パスタが伸びてしまう」
 そう言いながら、自分の食事にも手をつけていない。
「そのご飯は何?瑞穂さん待ってるの?」
 弟の悟志がその様を揶揄するものの、貴志は気にした様子を見せなかった。母も瑞穂を見て興奮したまま食事をとっていない。2人が談笑しながら食事をとる間、目の前で勉強の準備をするのがためらわれただけだ。それは本心なのか建前なのか。
 貴志は天井を眺めてため息をついた。

 瑞穂を椅子に座らせて、母は丁寧に髪を梳かしていた。寝癖直しのトリートメントをたっぷりかけて、温風でなじませたあと、冷風で成分をしっかり髪に閉じ込める。そして丁寧に、丁寧にブラシを通して瑞穂の髪を整えていった。
 シワシワにしてしまった服はハンガーにかけ、スチームを当ててシワを伸ばしている。
 代わりに瑞穂が着ているのは、貴志の部屋から拝借してきたTシャツと短パンだった。サイズが大きいため、Tシャツしか着ていないように見える。
 洗濯物は増えるが、洗うのはどうせ貴志。自分を想ってくれる少女の残り香を堪能したまえ、我が息子。
 貴志の服を着せられて、瑞穂は幸せそうに顔を赤らめていた。これがいわゆる彼シャツってやつなのね。
 違う。彼氏ではない。
「日焼けのシミは晩年に出てくるから、日焼け止めは手を抜いたら絶対にだめよ」
 こめかみ辺りの触覚部分が垂れ下がって勉強の邪魔にならないように、ヘアクリップを入れてやる。フクロウをかたどったクリップが瑞穂の髪で笑っていた。
「フクロウ…北村くんが好きな…」
 瑞穂が目をキラキラさせて、鏡に映ったフクロウとにらめっこしている。両者とも笑顔なのできっと引き分けだろう。
「貴志の好きなものをちゃんと知っているんだね」
 貴志は自分の好きなものを積極的に伝えるようなことはしない。「あの事件」以降、悪意しか人に伝えないようになってしまった。
「瑞穂ちゃんは転校生なんだっけ?」
 小さく頷く目の前の少女。その表情がにわかに曇る。瑞穂は文脈から察してしまったのだった。
 昔の貴志はきっと、自分の好きなものも、好きな気持ちもちゃんと言葉にする人だったのだろう。何が彼を今のように変えてしまったのか。
 知らないのは多分自分だけ。瑞穂の胸に寂しさのすきま風が吹いた。

 シワが伸びてしっかり乾いた服を、再び瑞穂は身にまとった。しかし違和感。
 服の香りが変わっている。
「ごめんね。貴志は柑橘系の香りのほうが好きなのよ」
 そういえば貴志から漂うのは、いつも爽やかなシトラスの香りだった。
 瑞穂もどちらかといえば柑橘系の方が好きな香りだったが、今回は貴志を香りで悩殺してやろうと、即席でフレグランスを振りかけてひと晩寝かせていたのだ。
「できれば貴志の前では、ローズ系の香りは避けてあげてね」
 その理由はわからない。教えてももらえない。だけど貴志の母が見せた悲しそうな表情に、瑞穂は察するものがあった。
 きっと貴志の心の傷に触れる香りなのだろう。いつかそれがどんな傷なのか…聞ける日は来るのだろうか。
 黙って頷いた瑞穂に、母は優しく微笑んだ。
「あんまり見てると、またもみくちゃにしちゃいそうだわ」
 瑞穂はいつかこの家に、当たり前に入り浸るようになってくれるだろうか。
 子犬のように可愛らしいこの少女が、貴志の心を再び開いてくれたらどれだけ嬉しいだろう。
 だけど…それは親のエゴ。この子に押し付けるわけにはいかない気持ちだった。
「貴志の事、想ってくれてありがとね。瑞穂ちゃんだったら、私は大賛成だから。
 でもね、貴志の言葉に傷ついたり、疲れたりしたら、ちゃんと見限っても良いんだからね」
 ずっと頷くばかりだった瑞穂が首を横にふった。まっすぐな目で貴志の母を見つめる。
 誰よりも、恐らく本人よりも貴志をよく知る女性に向けて、瑞穂は胸を張って宣言した。
「北村くんが優しい事、ちゃんと知ってます。
 本当は人を傷つけるような人じゃない事もちゃんと知ってます」
 瑞穂は、自らの決意を抱きしめるように、拳を胸の前できゅっと握った。心臓がとくんと強く脈打つ。
「例え報われなくても、辛くても、どんな秘密があっても、私は貴志くんが好きです。
 貴志くんを想うだけで幸せだと感じられるくらい、好きなんです」
 今はまだ好意を伝えることしかできない。想いを直接口にするのは強すぎる。だけど…。
 それでも好きだから。
 瑞穂から伝わる強い気持ちに、母は静かに頷いた。目の端に涙が光る。
 目の前二いる小さな少女に、かつてこの家に当たり前に出入りしていた少女の面影を感じたのだ。
 その少女の名は、坂木紗霧。
 大人しくて、それでも芯の強い彼女は、心から貴志を愛してくれた。紗霧を失った貴志の傷はとてつもなく深い。
 だけど瑞穂は、その傷ごと貴志を好きだと思ってくれる。そんな気がした。
「瑞穂ちゃん、連絡先聞いてもいい?」

 話を終えてリビングに降りた二人は、本当の親子のように打ち解けていた。談笑しながら食事をとる二人を見て、貴志は眩しそうに目を細めた。
 太陽のような瑞穂の笑顔が、心を閉ざすために伸ばした、前髪のヴェールすら貫いてとても眩しく感じたのだった。

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