【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第64話-梅雨が来た〜瑞穂はめっちゃ頑張った
貴志の地獄のような課題を、 瑞穂は健気にもこなし続けていた。
貴志は普段の瑞穂の表情や言葉尻の中から、精神状態を推察し、けして限界は超えさせ無いように課題の量を調整している。
漢字に関しては、中学必修範囲どころか漢検準2級レベルまで読み書きできるようになった。英単語も高校生レベルまで進めている。
暗記の課題に関しては、社会と理科に移行しても問題ない様子だった。
要した時間は2週間。6月の実力テストではそこまで伸びたわけではなかったが、英単語と漢字だけで成績が伸びるほど如月中学校は甘い環境ではない。
それでも少しは順位も上がっている。何より単語を網羅したことで、読解のペースが格段に早くなっていた。
「問題文を考えなくても読めるようになれば、効率よく勉強できる。
読解を正しくできるようになれば、参考書を読んだ時の理解も深まって、より効率的に新しいことを吸収できる」
貴志はダイニングテーブルで両手を膝において待機している瑞穂に語りかけながら、キッチンで調理を始めている。
「英語ができれば、海外サイトで知りたいことを学ぶのもためらいがなくなる。
翻訳ソフト無しでスラスラ読めれば、それだけ無駄な時間を使わなくて済む」
オーブンレンジが軽快な音を立てて、料理のできあがりを教えてくれる。
慎重にオーブンレンジから料理を取り出す貴志の後ろ姿を、瑞穂はまっすぐに見つめていた。
貴志の出す課題は膨大な量だったが、不思議と辛くはなかった。
恋ってすごいね。こんな辛くても大丈夫な気がする。
瑞穂は貴志に認められたい一心で課題に取り組んでいった。
しかし1週間が過ぎて暗記が軌道に乗った頃、瑞穂の心に違和感が生じ始める。
好意で誤魔化されているわけではなく、本当に頭が疲れていなかったのだ。思い返すと暗記地獄の合間に裕がゲーム感覚で理科を教えてくれていた。
そっか…北村くんは私が一番調子よく勉強できるように、調整しながら課題を出してくれてたんだ。
この2週間ただひたすらもがいていた手を、貴志が握りしめて引き上げてくれていたような気分だ。その手を握り返すように瑞穂は膝に置いた手をきゅっと握りしめた。
「ごめんね。そこまで考えてくれてたのに、結果でお返しできなかった」
瑞穂だって難関私学の一員だ。自分の勉強時間を割いて、人の面倒を見ることがどれだけ大変なことなのか位、理解している。
それなのに。
今回のテスト順位は、5組水準からも抜け出せていなかった。
悔しい。あんなに頑張ったのに。
瑞穂の悔しそうな様子は、キッチンからでも十分見て取れた。ふと貴志の表情が緩む。
悔しいと言うことは、それだけ課題に向き合って努力してきた証。そう言えば今日はまだ福原の笑っている所を見ていない。
「気にすることはない。福原がこの2週間でやってきたことは勉強の下地固めだ。
これからは結果に繋げやすくなってくる」
それは慰めでもなんでもない事実だ。中学3年生の夏。この時期に勉強しないような者はすでにライバルとは言えない。
この時期から順位を上げていくのはとてつもなく難しいことなのだ。
「福原はよく頑張った」
カタリと音を立てて、貴志は瑞穂の眼前に皿を置いた。
「修学旅行のホテルで出てきたパイシチューだ。だいぶ似たように作れるようになった」
瑞穂は目をぱちくりとしばたかせながら、首を傾げている。
耳から聞き慣れない言葉が流れ込んだ気がするのだが…。
まさか北村くんに褒められた?そんなわけないよね?
「冷める前に食べてくれ。今回のテストのご褒美だ」
ぱああ。瑞穂の顔が太陽のように明るい笑顔を見せた。貴志は眩しそうに目をそらす。
「ホントに良いの?食べていいの?」
瑞穂の鼻息が荒い。まるで顔にわくわくと書かれているような、天真爛漫な表情の少女は、差し出されたスプーンでシチューを包むパイ生地を貫いた。
おもむろに口に運んだシチューは、味覚だけでは受け止めきれない刺激を、嗅覚、触覚へと広げていき…。
「でーりしゃあす!」
滑らかな舌触りのシチューが舌の上を滑り、その風味を味蕾全てにコレでもかと主張する。その味覚を引き立てるのは程よく焦げたパイの香ばしい香り。
瑞穂の笑顔はどんどん朗らかになっていき、もはや人間としての原型を留めていない位に柔らかく崩れていた。
「ほっぺが落ちるどころか、顔の筋肉全部落ちちゃうよ~」
煮込んだシチューみたいな顔して笑うんだな。キッチンから眺めた瑞穂の顔を見て、思わず貴志の口元が綻びる。前髪で顔の大半を隠した彼の唯一露出した口元が。
ハンドドリップのコーヒーは心地よい心音のリズムでカップを満たしていく。
完食した瑞穂にコーヒーを差し出すと、貴志は洗い物を始めた。
コーヒーに舌鼓を打つと、瑞穂は眠くならない内に数学のテキストを開く。
タンブラーになみなみと注がれた炭酸水を差し出しながら、貴志は瑞穂の対面に腰掛けた。
ダイニングには他に誰もいない。貴志と瑞穂の二人だけだった。
「ごめんね、今日は個別指導お願いしてるから」
今日の勉強会不参加を最初に表明したのは理美だった。弥生高校を受験しようと思うと、もう少し成績を伸ばしておきたい。
順位が出た段階で、全教科の総括も兼ねて自己学習を進めておきたかったのだ。もっとも、今日予約を入れた理由はそれだけではないのだけれど。
「すまん、オレも隼人と出かける約束をしてて!」
実力テストの結果が返った以上、今日は瑞穂の成績に対する今後のプランを練り直す日になるはずだった。そんな大切な日だと言うのに、裕までが来れないという。
裕が瑞穂よりも隼人を優先したというのも、不可解な話だった。
「あれ?そんな約束してたっけ…ぐはっ!」
隼人の声が聞こえたような気がしたが気のせいか。首を傾げる瑞穂の後ろで、裕が隼人を黙らせようとラリアットをかましていた。
兎にも角にも貴志の家の門を叩いたのは瑞穂一人だったのだ。
「何でだよ…」
全員で来ると思っていた貴志は、困惑の表情で瑞穂を迎えていた。
キッチンでは全員分のシチューが、コトコトと煮込まれているというのに。
やられた。アイツら狙ってたな…。貴志は頭を押さえて、瑞穂をダイニングには招き入れたのだった。
「改めて言うけど、福原はよく頑張った」
貴志は落ち込む瑞穂をまっすぐに見つめながら、繰り返し努力を讃えた。
褒められたことは嬉しい。しかし瑞穂は浮かない様子だった。パイシチューを食べている間は太陽のように明るかった表情が、今はゲリラ豪雨直前の曇天に見える。
やはり結果を出せずに努力だけ褒められてもしっくりこない。
「福原に言っておく事がある。
努力は裏切らないなんて言葉は嘘だ。だけど努力しなかった事は裏切らない」
貴志はそう言うと、瑞穂の手元を確認した。広げられているのは数学のテキスト。貴志は片眉を上げた。
実力テストの総括をして、今の理解度に対して次の課題を考える。伝えていたのはそれだけなのに、瑞穂が準備したのが自分の意図した通りの数学だったのだ。
瑞穂は瑞穂なりに、貴志の意図を汲み取りながら課題をこなしていたことが見て取れた。驚きが瑞穂に伝わらないように、貴志は極めて平静を装った。
「今日はとりあえずこっちを解いてもらおうか」
貴志が差し出したのは、難関私学受験向けの問題集だった。
その最初の問題を貴志が指差すと、瑞穂は黙々とそれを解き始めた。
問題文を読み終えると、瑞穂は問題のポイントとなる単語に丸をつけていく。次にキーワードを並べて、ポイントごとに文を組み直す。
感心したような貴志の顔は、問題に集中していた瑞穂には見えなかった。
不正解。瑞穂は机に突っ伏して悔しがっている。うーっと喚く瑞穂に、貴志は確かな手応えを感じていた。穏やかな声で瑞穂に語りかける。
「一ヶ月前にこの問題を解かせていたら、福原はどう思った?
多分解けるわけない!って、すぐに諦めて悔しさも感じなかったはずだ」
瑞穂が肩を震わせる。問題を見た瞬間にそう思ったことを見透かされている気がした。だけど文章を分解、再構築してみたら解けそうな気がしたのだ。結果はダメだったけど、それでも問題への取っ掛かりを掴むことができた。
「俺と高島さんはひたすら語彙力をつけるためのトレーニングを課題で出した。
裕の教え方は福原の理解度を確かめるのと同時に、今の福原に足りない所を補足してくれてたんだ」
基礎的な語彙力が身についたことで、瑞穂は長文問題の解き方を自分で気が付いて解いて見せた。答えが合わなかったのは、単純に瑞穂が履修していない範囲の問題を出したからだ。それでも考え方までは導き出せるようになっている。
「言ったろ?努力しなかった事は裏切らない。そういう勉強法をしてこなかったんだから、解けなくて当然なんだ。これからは、初めて見た問題にも対応できる勉強に切り替えていく」
それは暗記地獄からの解放を意味していた。瑞穂の頑張りは一旦報われた形となったのだ。
貴志の口調は優しかったが、二人きりで過ごした時間のほとんどが勉強に費やされてしまった。
貴志と話がしたい。もっと貴志の心に触れたい。そう思って緊張しながらも一人で家を訪れたのに。
北村くんの気持ちに触れられない…。
勉強とは違う焦りを、瑞穂は感じていた。
「あのさ!明日も…勉強教えてもらっていい?」
帰り際、玄関先で貴志にぶつけた言葉。
かなり勇気を振り絞ったつもりだったが、貴志の反応は…?
「昼からなら大丈夫だけど、福原は良いのか?明日は土曜日だぞ?」
しまった。暗記疲れと成績が上がらなかった悔しさで、日付の感覚がなくなっていた。
瑞穂はあわあわと口に手を当てて慌てている。
「ごめんね!そんなつもり全くなくって、会いたいとかそう言うんじゃなくて、あのね!」
パニックで本音がダダ漏れになる瑞穂。
貴志はふふっと自然に溢れた笑みに、自分で驚いた。瑞穂に気づかれないように、嘲笑を装う。
その次に続けた言葉は、
「俺は別に良いと言ったんだ」
瑞穂は両手をぱたぱたと羽ばたかせながら、乾いた笑い声を上げている。
「ごめんね、今日はありがとね。パイシチュー美味しかったよ〜」
慌ててそのまま立ち去っていく。どうやら貴志の声は耳に入っていなかったようだ。
やれやれ。日はまだ沈みそうにもない。それでも貴志はため息をついて瑞穂を追いかけ、家まで送っていく。
顔を真赤にした瑞穂は、終始落ち着かない様子だった。
風呂で湯船に体を沈める瑞穂。1日の疲れをお湯に溶かしていく。
満足のいく結果を出せなかったテスト。それでも貴志は褒めてくれた。
パイシチュー美味しかったなあ。難しい問題も、挑戦できるようになっていた。まだ解けるわけじゃないだろうけど。
北村くん、明日も来て良いって言ってくれたなあ…。ん?んん?
「ええええええ?」
風呂場での絶叫。痴漢でも出たのかと両親が脱衣室に駆けつける。思春期の娘の風呂に父親が駆けつけると起こることはただ一つ。
特大の絶叫がこだまして、父の頬には風呂桶の打撲跡と、心には「変態」と娘に言われた深い傷が刻まれた。
ぴこん。貴志のスマートフォンに響く通知音。ポップアップには、「本当に明日、行っていいの?」の一言。
貴志は頭を抱えた。福原…もう今日になってるぞ。
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