窓辺には笑ふ探偵赤い月
深夜アパートの天井裏に鼠が出て煩いので、大家に断って押し入れの天井板を外し、鼠避けを置こうと首を出してみたら原稿用紙が数枚、埃を被って置いてあるのが見えた。
何だろう思って灯りの下へ持っていき、埃を払ってみる。
どうやら小説のようだ。
緑川婆さんの煙草屋の二階に住み始めて早一ヶ月。毎朝婆さんにベニヤ板の隙間から箒で突つかれるのには閉口したが、小間使をする代わりに家賃が只でその上朝晩の食事まで食わせてくれるのは有り難かった。毎日芋汁ばかりで飽きてきたが贅沢を言っては居られない。この帝都東京でこんな好物件はそうそう見つからないだろう。
今日も私は婆さんの言い付けを守って店の留守番と掃除をした後夕飯の買い出しへ商店街に行った。
婆さんのくれたメモを見ながら八百屋で長芋の品定めをしていると、不意に後ろから声を掛けられて驚愕した。
「おっとこれは驚かせてすいませんね。さっき貴方があの煙草屋から出て来るところを見掛けたもので跡を附けさせて貰いました」
見るとモジャモジャの髪によれよれの着物を着た痩せぎすの青年である。私と同じ二十代だろうか。
「ええ、確かに私はあの煙草屋の二階を間借りしてます。それがどうしたんです?」
「実は私は遊民でして人間観察と称して街をぶらつきながら探偵の真似事をしている笑島という者です。あの煙草屋について奇妙な噂を耳にしましてね。立ち話は何ですから一寸向こうで話しませんか?」
丁度八百屋の隣が古本屋でその向かいが白梅軒という喫茶店になっている。
「ええ構いませんよ。婆さんは帝劇へ芝居を観に行きましたから」
私と彼は白梅軒に入って冷やしコーヒーを注文した。
「で、先ほどの話の続きなんですがね。あの煙草屋には明智小五郎が住んでいるという噂を聞くんです」
「え?明智小五郎とはあの名探偵の?」
「ええ。江戸川乱歩の小説に登場する探偵です。あの小説はフィクションですが乱歩は実在する探偵をモデルに明智小五郎を創り出したといわれています」
一階の住人は無口で無愛想で私も滅多に口を聞いたことは無かった。ただ何でも読書家らしく四畳半に本が山積みされているのをチラリと見たことがある。年は若いのか老けているのか不明であった。
「しかしあの人が明智小五郎なんて信じられませんね。それに婆さんも関係してるんですか?」
「ええだから私は噂が本当か確かめる為に張り込んでいたんです。あの婆さんの正体は黒
とここで小説は途切れていた。
一体作者は何故ここで筆を擱いたのであろうか?
何故原稿用紙を天井裏に隠したのであろうか?
これを書いたのはこのアパートの住人であろうか?
もし江戸川乱歩の時代だとしたら随分昔の話である。
私の頭の中は様々な疑問が渦を巻いていた。
窓の外には赤い満月が悪魔の如く輝いている。
その時トントンとドアをノックする音が聞こえた。
深夜二時に一体誰であろうか?
私は恐る恐るドアを開けてみた。
小説はここで途切れていた。
本文1200文字
ムーミンママさんのこちらの作品から着想を得ました。