バツイチアラサーが猫を奪われて幸せになる話

2019年冬、関東某所で一通の離婚届けが受理された。
度重なるモラハラ、飼い猫に対しての虐待。
子供が生まれたばかりと言っても、当時の私はその生活に耐え切れなかった。

猫たちは私の実家へ避難という名の定住を余儀なくされた。
愛犬を亡くし、子供たちも親元を離れてしまった今となっては、寂しい思いをしているだろう両親にとって、また子供ができたかのようで良かったのかもしれない。もちろん、猫たちにとって、最善の選択ができただろう。

結婚生活は1年弱。同居生活自体は2、3ヶ月という期間であったが、平日14時の病院の待合室にいるかのように長い時間に感じられた。

終わってみればあまりにあっけない幕切れに、心底、清清していた。
不安や焦り、怒りよりも安堵が先に来た。
2度しか会ったことのない血だけ繋がった生き物に愛情なんて湧かない。
何よりも大事にしてきた本当の家族である猫に手を上げたことが許せなかった。
もう一生、あの者たちとは会いたいと思わないのはおかしいだろうか。
バックグラウンドを知らない人は多く、クズ、人でなし、と何度も揶揄された。
仕方ないことだ。気にはしていない。
私にとっての人でなしは、あの者だけなのだから。


時が経った。
生きていればお腹は空くし、恋もするでしょ。とはよく言ったもので、時間が経つにつれ、孤独の輪郭をなぞるたびにもの淋しさがやってきた。

寂しい、哀しい、孤独だ、と考えるうちに一番にやってくる気持ちはいつも決まって
「猫、飼いたいな」
だった。

愛猫たちと離れて生活して2年。
私は地域の保護猫ボランティアの開催する譲渡会に参加するようになった。
しかし、ふわふわの体に触れ、心地よいゴロゴロを聴くたびに、自身の動機と、動物と暮らす、家族になるということがマッチしないことに気がついた。

私は数回で譲渡会には参加しなくなった。
寂しいから、という理由だけで命を預かるというのは不純なのではないかと思った。

それでも、出会い、というものはあるもので、
会社の同僚の近所で、子猫が数匹生まれたらしく、譲渡会に参加していたことを知っていた彼から、「もらってやってくれないか」と相談を受けたのだ。

心臓の鼓動が速くなっていた。猫を抱っこしたい。一緒にお昼寝をしたい。
たくさん餌を食べさせたい。おもちゃで遊んであげたい。寂しい生活を終わりにしたい

その気持ちが落ち着く暇すらなく、私は子猫のいる場所へと面会に赴いていた。

気さくな老夫婦が小動物を入れる水槽のようなものから、まだ生まれて間もない小さなふわふわを差し出してきた。
「気に入ったら、今日、持っていっていいからね」

急なことで頭が混乱した。
私の動機は極めて猫のためではなく、己の欲のためなのだから。自分が寂しくなければそれでいいのだから。
こんなに可愛い小さな命なのだから、この子の為にとだけ考えてくれる里親が現れるかもしれないのに。いいのだろうか。断るべきだ。

「大切に育てさせていただきます」

本当に自分の意思の弱さには呆れる。
小さな命は私の車の助手席に置かれていた。

以前いた猫たちの物はほとんど処分してしまっていたため、その足で急遽ホームセンターへ向かった。

必要なものを揃え、自宅に着く。
部屋に子猫を放すと、
「にー!」と元気に鳴いた。


それから1年半ほど経った。今では保護猫3匹の大所帯になった。
もう私は寂しくない。毎日家に帰るのが、楽しみで仕方がない。

あの時、あの老夫婦から猫を譲ってもらえて良かった。
動機は変えられないが、そんなことはもうどうでもよくなった。

猫を飼うのに資格なんていらない。気概なんていらない。
大事なことは猫と一緒に幸せになることだけなのだ。

私は猫たちに救ってもらった。そう猫たちも感じてくれていたら嬉しい。
暖かい布団で寝かせてあげたい。好きなものをたくさん食べさせてあげたい。
その幸せな瞬間にずっと一緒に居られたらそれでいいのだ。

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