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040.算術に見る日本的合理主義

こうした日本的な非合理/遊びを含めた論理的?な思考を説明するときに私がよく使う一つの例として、江戸時代の野沢定長という数学者の、円周率に関する話があります。以下は、ほぼ⑬『日本史再発見』(板倉清宣著、朝日新書)の受け売りです。
江戸時代、日本の数学レベルはかなり進んでいたそうです。
古くから、円周率=パイ(直径に対する円周の長さの比)は、数学に興味を持つ学者たちの一大関心事でした。日本においても例外ではなく、すでに江戸時代の初期には円周率の値として3.1*までは把握されていたようです(円周率=3.141592・・・)。
そんな数学者の一人に、野沢定長という人がいました。1600年代中ころのことです。
野沢定長も円周率の研究に携わり、紆余曲折を経て、1767年には、計算によって、3.14と小数点下2ケタまで算出します。
円周率の値をどのようにして求めたかと言えば、円周は、円に外接する正多角形の辺の和より小さく、円に内接する正多角形の辺の和より大きい、ということから算出します。
内接・外接する多角形を、正方形からはじめて、正八角形、正十六角形・・・とだんだん多角形にしていって、外接する正多角形と内接する正多角形の間をどんどん狭めていきます。1650年ころを境にそろばんが普及しはじめましたので、計算はそろばんと手計算です。
当時の数学者たちの間で、用いられていた方法に「遺題継承」というやり方があります。
これは、数学者が著書を出版する際に、巻末に問題を提起する。次の著者はこれに回答を提示し、その上でさらに自分から問題を提起するというやり方で、どんどん問題を継承していくというものです。
これを遺題継承と呼びました。こうしたテーマに円周率も扱われ、『日本史再発見』著者の板倉によれば、円周率の数値はすでにかなりの桁まで把握されていたようです。
さて、計算によって3.16を経て、3.14までたどり着いた野沢定長でしたが、しかし彼は、たどりついた3.14を捨てて、ある時からあえて3.162を円周率の値として主張したといいます。計算によって算出した3.14という値が、論理的に正しいことを自覚しながら、数学的に正しいだけでは満足しなかったと言うのです。
野沢定長が、数学的に正しい3.14を取らず、あえて3.162を選択したのは、どういうわけがあったのでしょうか?

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