見出し画像

019.勤勉は近代産業とともにやってきた

 時代からいえば、日本は1905年に日露戦争に勝利して意気軒昂、まっしぐらに殖産興業、富国強兵で工業立国、軍事力増強にまい進し、自前で軍艦の建造に力を入れていた時代です。長崎に造船所、横須賀に製鉄所(後の造船所)を開設し、呉に海軍工廠を整備し、国をあげて軍艦づくりを目さしていた、まさにその時代の勤務実態がこれです。
挙国一致で増産をめざしているさなかの、その中核ともいうべき長崎造船所での職工の勤務実態が、欠勤率21パーセント、「勤勉」とは程遠い働きぶりです。
前述の横須賀製鉄所の首長を務めたヴェルニーは、1876年に離職するに際して、在職中の状況を日本政府に報告しているが、この報告書の中で、第3章人員として、

「職工出場の比例は極めて不問なれども、平均100人中15.4%の欠業者あり、仏国造船所においては平均100人中5名の欠業者を生ずるを例とす」(「横須賀海軍船廠史第二巻」明治百年史叢書、原書房)

と指摘している。
フランスの造船所では職工の平均欠勤率は5%ほどだが、ここでは15.4%にも達しているというのである。欠勤率が高い理由としては、低学歴で、腕を持った職人と違って「雇われ職工は女こどものやること」という風潮が強く、まじめにやる対象と思われていなかったといったことがあげられていたようです。
こうした姿勢は、大正期に入ると、徐々に改善がみられるようになるのですが、すくなくとも、明治時代には、生活習慣とともに、月―土で定時に勤務する工場労働の近代的な勤務形態に、労働者の意識が追い付いていないと考えられます。
離職率も同様で、

「18981902年には、長崎造船所では、在籍する労働者の60~80パーセントに当たる数の労働者が1年間に雇用され、退職していた。1901年に行われた芝浦製作所、大阪鉄工所など全国10工場の勤続年数調査でも、1年未満しか在籍していない労働者の数が50~70パーセントであった。・・・この状態は第1次大戦期まで続き、1919年の全国調査でも同じように60~80パーセントという高い移動率が記録されている。大工場の労働移動率が年間10パーセント程度に低下するのは1920年代の後半になってからのことである」(⑬『日本人の経済観念』武田晴人 岩波現代文庫)

と言うのが日本人の勤務実態でした。
どうやら、明治、大正期においては、一部の基幹労働者を除き・・・自分の勤める会社に対する帰属意識も希薄で高い離職率と低い定着率を示し、勤勉性が本格的に形成、発揮されるに至ったのは第二次世界大戦後の195055年以降で、日本人が勤勉になったのは、第二次大戦後しばらくたってからのようです。
つまり、DNAのように思われていた日本人の勤勉さは、たかだかここ70~80年間に身につけた習性にすぎないらしいということです。
「思春期は蒸気機関とともに始まった」(⑭「星和書房こころのマガジン-今月のコラム」西園マーハ文 http://www.seiwa-pb.co.jp/htmlmail/188.html)。
・・・といったのは、イギリスの社会心理学者フランク・マスグローブのようです。
そのひそみにならえば、「日本人の勤勉は近代産業とともにやってきた」のです。いえ、日本人だけでなく、時間によって規定される勤務そのものが近代産業とともにやってきたといえるのではないかと思います。
1800年代、近代産業化の進んだ欧米からきた外国人たちの目に、産業の発達していない日本では、きままな日本人の勤務が怠惰に見えたのはしかたありません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?