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教職コンベア

 教育学科みたいなところに所属している僕ですが、この学問は教職に就くための最短距離に過ぎないと思っている。単なる過程、コンベアみたいなものだ。

 大学で学問に身を置く人々とは思えない姿勢、単に過程をこなせばいいとする学科。

 僕は無知である。偏った考えにとらわれ多角的な視点を失っている可能性もある。批判は受け付けるつもりだ。

教職課程を眺めて

 一年ほど過ごして思うことは、教職に就くために義務付けられていることと学問を交錯してとらえていることがたたみられること。例えば教育学科などで卒業条件が教員免許取得を義務付けている場合に、すべての講義に教員免許をつなげてしまうということ。そういった考えは学習する機会に反して得られる成果が激減する。なぜなら、ただ付け加えられただけの条件を最終目的と勘違いし、それが故に、その目的に直結しない情報を拒むからである。まさに教職コンベアの弊害である。

教職コンベアとは?

 大学に進学してまで、既存の過程に身をゆだねる教育があるとは思わなかった。もっと議論して批判する学問があると思っていた。
 教職に至っては、公務員であることや教員採用の試験があるために、なにか既存の教育論や規定に沿わなければならないと思っているのかもしれない。
 学問と教職の過程を同一視した教員生徒を教職コンベアに乗った人と言いたい。教職に義務づけられていることから一般教養の講義まで、脇に控えた作業員(システムや教員)にライン作業のごとく取り付けられる。
 自らの足で進まず、自らの手で学習しない。教師になったとして、子供は其方から何を学ぶだろうか。

僕ならどうする

 再三いったが、問題は過程と学問を混同することであり、区別しさえすれば歩むべき道はおのずと見えてくる。
 クリティカルシンキングを身に着けるといい。教職という観念にとらわれれば考えは一辺倒になる。もっと多角的な視点をもって学問に身を置けば成長は著しく、学問に対する批判をもてば豊かな考えが養われる。

 まずは疑問を持つ。システムや講義に。そこから議論や批判につながって、自分の考えを確立する。その考え方がない教師の物言いは常識や道徳、モラルなど、誰からも文句を言われないであろう意見に影響される。

 教職コンベアは乗せられるもの。自分の意志で降りることがあっても乗ることはない。まずは自分の環境を疑ってみるべし。

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