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【知られざるアーティストの記憶】第05話 再会、そして二人の時間が刻みを始めた

▽全編収録マガジン

第05話 再会、そして二人の時間が刻みを始めた

2021年早春、彼の姿が見えなくなった彼の家には、わずかに人の住む気配があった。庭は雑草が伸び放題になっていたが、ベランダには時折一人分の洗濯物が小さな角ハンガーに吊るされていた。そして、マリは一度か二度、ベランダに立って遠くを眺める人の姿を目にした。それは彼よりもさらに背が低くずんぐりした体系の男の人で、背中が曲がって見えたので年老いた彼のお父さんではないかとマリは推測した。

2021年4月16日、彼の家に小さな変化があった。庭の草が部分的に抜かれ、小さく積み上げられていたのだった。久しぶりに目にした彼の家の変化に胸は高まった。翌日、彼の家の隣の平屋に住むおじいさんを見かけたので、マリは初めて声をかけた。
「こんにちは。お隣のかたを、前はよくお見かけしていたのに、最近ちっとも見かけなくなっちゃいましたけど、何かご存知ですか?」
「ああ、入院していたけど、2日前に戻って来たよ。」

やっぱりか……。想像しうる最悪のことではなかったけれど、彼の体は今どんな状況なのだろう。今までのように外に出たり、家を整えたりできる体ではなくなったのだろうか。いずれにしても、近いうちにまた彼に会える。そんな予感はマリの気持ちを一応温めた。

おじいさんとの会話の中で、彼の両親はすでに亡くなっていること、私がお父さんだと思っていた彼の同居人は彼の弟であることがわかった。

そのさらに翌日の2021年4月18日。夕方、マリが気功に出かけようとすると、橋の上に佇む彼の姿があった。彼はやや後傾姿勢で立ち、ぼおっと目の前に視線を漂わせていた。まだ明るい夕方の陽ざしの中に浮かび上がった彼の立ち姿は、とても自由であったが、あまりにも軽く、薄く、今にも風に吹き飛ばされそうなほど心許なかった。元々がこれ以上痩せることはできないほど痩せていたのに、そこからさらに痩せ細っているのを認めざるを得なかった。帽子の中から覗く髪の毛がとても短くなっているのも嫌な感じを与えた。哀れなほど変わり果てた姿であったが、マリは一目見て彼のことがわかった。

マリがはっとして足を止めると、彼は後ろを向いていたにも関わらずなぜか気がついて彼女に振り向き、わりと力のある目線を向けた。そして、ポケットからさっと不織布マスクを取り出して装着し、マリが近づいてくるのを待った。彼がマスクを着けたのは、マリと話そうという意思の現れに他ならなかった。

マリはいつも公園にはマスクを持たずに行く。慌ててショルダーポーチを探ってみたが、やはりマスクは入っていなかった。その時、彼の抱える病状が感染症に対してシビアさを求めることに思い至り、マスクを常に携帯しなかったことを後悔した。

「ごめんなさい、マスクないや。」
マリは慌てて口元を手で押さえながら、
「しばらくぶりです。ずっとお会いしなかったから心配していました。」
と伝えた。

「入院してた。白血病になっちゃった。」
彼がまっさきに伝えたのは、重大すぎる病名だった。誰もが知っているその病名を頭の中で反復し、マリは返答に困った。立ち向かうのが困難なイメージを伴ってその病名は知られているのに、原因や治療法、主な症状や助かる見込みなどの知識は、マリの中のどこを探しても見当たらなかった。
(それにしてもこの人は、そんなに重大なことを、挨拶しか交わさない仲である私になぜ伝えてくれるのだろう)
とマリは少し不思議にも感じた。

「体重が……、もとは47キロあったのに、いま40キロになっちゃった。歩くことが……もうできない。散歩くらいならいいけど。何もできなくなっちゃった。肺に水が溜まって……、それで……体重がどんどん減ってっちゃう。」
彼はかすれた弱々しい声でマリに伝えた。マスクもしていた彼の言葉を聞き落とさないように、マリは目を見開きながら注意深くそれを聞き取った。

「窓からT山も見えて、その向こうに富士山もきれいに見えた。」
「病院の窓からですか?」
「うん、病院の7階の窓からね。」
そう言って遠くのT山を眺め、目の前の空間に心を預けるようにしている彼の横顔は、極めて無に近かった。

「また入院する。同じ市内と、隣の県に親戚がいて、手伝いに来てくれるんだけど、高齢で……。」
その言葉を聞いて急に思い立ったように、
「私、近所なので、できることがあったら言ってください。車もあるから。」
と勢いよく言うマリを払いのけるように彼は、
「いやっ。」
とだけ言って、家のほうへ歩いて行ってしまった。数歩歩いて振り返った彼に、マリは駆け寄って伝えるべき言葉を見つけられなかった。

あの人は、死んでしまうんだ……。
その病名のためではなく、その日の彼の印象が、そんな拭い去りたくても拭い去れない予感をマリに与えた。
(1927文字)

【一言解説】彼が橋の上でマリに病名を告げたこの日、二人の人間関係が始まったと私は感じています。「彼と出会ってから1年2ヶ月の日々」というとき、この2021年の4月末が起点となっています。

▽第06話


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