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【知られざるアーティストの記憶】第01話 兆し

▽全編収録マガジン

第01話 兆し

2020年の4月、未知の事態への不穏な緊張に世の中が息をひそめていた頃、マリはひとりのん気に新鮮な空気を吸い込み、人が疎らとなった朝の公園に毎日出かけるようになった。中国から渡ってきた新種の流行病があっという間にこの国を脅かし、マリの息子たちが通う学校も保育園も休校休園になったことは、マリを忙しい朝の支度から解放したので、彼女はこれを習ったばかりの気功をみっちりと実践するための時間を自分に与える好機だと考えたのだ。

国じゅうの人がそれまでの生活を変えなければならないことに困難と不安を抱える中で、マリがこのようにのん気に、むしろきらきらとさえしていたのは、彼女が専業主婦に毛が生えたほどの働きかたしかしていなかったことにも起因している。マリには三人の息子がいる。そのうち障害を持つ次男が学校に行かれず在宅していたことも、マリを仕事から遠ざけていた。マリは夫とともに細々と営む家業のわずかな雑務をこなすことで三男を保育園に預けていた。週に3回ほどスタッフとして働いていた子育て広場も、この時勢でやはり休館となっていた。

人生で最も脂の乗る頃とも言われる40代前半にあってマリは、暇を持て余すわけではないまでも、様々なマニアックな方面に興味の触手を伸ばしながら、自分が寝食を忘れるほどに没頭できる分野というものに未だ出会わずにどことなく煮え切らない日々を過ごしていた。ちょうど流行病のニュースがささやかれ始めた2月末に、ぴんと来て習いに行った気功は、その目を引く名前のせいではなかったが、そんなマリの人生を変えていく兆しを感じさせるものだった。

しかしこの気功との出会いがマリにとって、流行病による統制社会の始まりと時を同じくしていたことは、偶然だったのだろうか。この気功もまた、故郷を中国に持つ。中国の郭林という名の女流画家がガンを消滅させることを目的として確立し、広めている気功が元になっていた。

何事もあまり長続きしないマリに、この気功はすぐさま目に見える変化をもたらしたので、マリの意欲は高まった。習ってきた翌日には、階段を駆け上がっても息が上がらなくなった。左右に手を振りながら歩いて行うこの気功を、当初は人前でやるなんてとんでもないと感じて狭い家の中で短時間だけ行っていたが、4月に初めての「緊急事態宣言」が発令されるとマリの中で何かが吹っ切れた。トータルで行うと瞑想も含めて1時間強かかるこの気功を毎日公園で行う時間を自分に与えよう、とマリは思い立った。

目覚めて最低限の家事を済ませると、毎朝公園に出かけた。幸いにもマリの家は、広い公園や川沿いの遊歩道まで徒歩0分という好立地にあり、気功のコースには事欠かなかった。毎日1時間の気功で、お腹や太もも、背中の脂肪がみるみる落ち、体重も減って体が引き締まった。この気功はインナーマッスルを鍛えるので、続けていくと日常生活の所作でも自然にインナーマッスルを使うようになっていくのだ。気がつくとマリの腹筋も割れていた。おそらく歩き方も変わっていただろうし、マリは生まれて初めて「キレイになった」、「若返った」とか、「スタイルがいい」などと人から言われるようになった。自分でも、どんどん女らしくなっていく自分の体の線を毎日鏡で眺めた。

思ってもみないほどの目に見える急速な体の変化は、マリの乙女心をよろこばせたが、おそらく目に見えづらい内面の変化はそれ以上だった。この気功は、「宇宙と繋がりやすくし、潜在意識に働きかける」と言われている。自分の本質とは関係のない出来事に翻弄されなくなる、人間関係に深く傷ついたり、自分を否定することがなくなる、直感が働きやすくなる、などの変化を感じた。少なくとも以前の自分と比べると、マリは確実にそういう方向へと変化していくようだった。

この気功との出会いと心身に起こった大きな変化が、彼と出会うための土壌となっているように思う。心身ともに余分なものを脱ぎ捨てて変化した自分だったからこそ、彼と出会ったのだと。
(1643文字)

▽第02話


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