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【知られざるアーティストの記憶】第02話 非常時にマリは6年間近所だった人を見つけた

▽全編収録マガジン

第02話 非常時にマリは6年間近所だった人を見つけた

川に沿ってなだらかに広がる公園は、児童公園のような遊具を備えておらず、石畳の桜並木の脇にわずかに大人向けの筋トレ器具が設置されるばかりで、ゆったりとした芝生エリアと林エリアに遊ぶ親子、ベンチで語らう老人たちの他に、散歩する人や通行人が行き交う、少し大人びた公園だった。厳かで異国情緒のある橋を隔てた対角には、市が運営するプールとたくさんの遊具を備える大きめの児童公園があった。川の両サイドには、散歩にもジョギングにもうってつけの遊歩道が長く伸びていた。

そのいずれにも、玄関を飛び出せばすぐにアクセスできてしまう自宅の立地をマリは気に入っていた。住んでいたのは借家だったけれど、できれば一生このエリアに住んでもかまわないとさえ思うほどに。そのわりには、近いということに満足してしまって、子育て世代真っただ中であったにも関わらずあまり高頻度にこれらの環境を利用してこなかったのは、彼女の両親譲りのあまりアクティブではない性質によるものらしかった。したがって、567社会の幕開けと同時に毎日公園に気功に出るようになったことは、マリの生活の景色を変えた。

朝の時間帯の公園が、いったい平時はどのようであったのか、マリは知らなかった。それにしても、不気味なほどに人がいない。通勤風の人の姿は全く目にしなかった。代わりに、スポーツウェアに全身を固めたうえ律義にランナー用のマスクで口元を覆った人々が思い思いにジョギングしたりウォーキングする姿を目にした。

その中には若者もいたし、マリの長男が中学生時代にPTA活動を一緒したシングルマザーもいた。彼女は都心に通うキャリアウーマンだったが、仕事がリモートワークになったため運動不足解消のために毎朝歩くことにしたと言う。近眼なのかいつもマリには気づかずに、前だけを見据えて必死の形相だった。いつも同じ時間に散歩する熟年夫婦もいた。駅前でパブを経営するおじいさんも、午前中にゆったりと散歩をしていた。比較的早朝には、小学校へ上がる前の男の子がお父さんと一緒にストライダー(ペダルのない自転車)の特訓をしていた。彼らはストライダーの競技大会に出場するための本気の訓練を、おそらく朝の幼稚園に通う支度前の30分ほど毎朝行っていた。競技大会の開催は何度も延期され、未定であった。

初めは様々なコースで気功をしていたマリが、お気に入りの場所に落ち着く頃には、すっかり朝の顔馴染みがたくさんできていた。

その定まったコースに向かう途中の曲がり角の家に住む人を、時々見かけることに次第にマリは気がついた。その家は、マリの家からほんの数十メートル、お隣さんではないまでも2、3軒隣くらいのごく近所であったのに、マリがこの借家に引っ越してきてから6年もの間、その家にどんな人が住んでいるのか気にしたこともなかったのだ。

その6年間の日々は、不登校気味だった自閉症の次男をどうにか特別支援学校に通わせることや、学校とのやり取りに、マリは大方のエネルギーを注いでいた。その人の家とは反対の方向にある支援学校に車で送り迎えをするのがメインの生活だったため、それだけの近所にも関わらず、その家の前を徒歩で通りすぎることが日常的ではなかったのだ。

彼は身長が低く、瘦せていて、背中辺りまで伸びた真っ直ぐな黒髪を後ろで束ねていた。決まって着ていたベージュ系か茶系の服は、着古されてはいたが不潔感はなかった。大抵はハット帽、冬場はニット帽をかぶり、それがとてもよく似合っていて、ムーミンに出てくるスナフキンみたいだった。

彼の雰囲気は地味で目立たなかったが、普段は人に向けられることのないその視線は、よく見ると鋭い眼光を宿し、ただならぬオーラを放っていた。マリは数年前にも一度、彼のことを見かけたことを思い出した。その時も、非凡な彼のオーラは強くマリの印象に残っていた。彼は中性的で、例えば瞑想かヨガの先生のような、精神的鍛練を積んだ人の匂いがした。禁欲的でありながら、ナイフのような鋭さを持っていた。
(1645文字)

【加筆】2023/8/31 9:50
最後から2パラグラフ目に、彼のビジュアル的特徴について加筆しました。

▽第03話


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