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囲碁史記 No.1

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囲碁史研究家の視点により、囲碁の歴史を貴重な資料をもとに解説。 No.1は本因坊算砂から道策まで。
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#囲碁

囲碁史年表(算砂~道策)

囲碁史年表(算砂~道策)

 本因坊算砂が生まれた永禄二年 (1559)から、本因坊道策が亡くなった元禄十五年 (1702)までの間の囲碁に関する出来事を年表にまとめてみた。
 色々な出来事を時系列に並べてみると、その背景や伝承の矛盾点が見えてきて、なかなか興味深いものである。
 なお、出来事は伝承なども含まれるため、史実ではないと考えられるものもあるがご了承いただきたい。
・添付のExcelのデータをダウンロードして御覧く

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囲碁史記 第1回 初代本因坊算砂とは

囲碁史記 第1回 初代本因坊算砂とは


本因坊算砂とは

 囲碁史において多くの史料や棋譜が残されるようになったのは本因坊算砂が登場してからのことである。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の俗にいう三人の天下人の時代である。近世の碁はここから始まったといえる。
 算砂は本因坊第一世。永禄二年(一五五九)五月、京都長者町で生まれた。本姓は加納、幼名は與三郎といった。
 與三郎は八歳のとき、後に寂光寺の開祖となった久遠院日淵の門(日蓮宗)に入り

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囲碁史記 第2回 本因坊の原点寂光寺

囲碁史記 第2回 本因坊の原点寂光寺


寂光寺初代 久遠院日淵

 ここで本因坊の原点ともいうべき寂光寺について述べていこう。寂光寺はこれまでも出てきたように本因坊算砂が二世住職を勤めた寺であり、歴代本因坊(世襲制)が眠る囲碁の聖地とされる地である。
 寂光寺は京都十六本山のひとつで日蓮大聖人滅後二九六年後の天正六年(一五七八)に久遠院日淵上人により京都近衛町に創建された。
 天正十八年には豊臣秀吉により聚楽第建設のため、寺町通竹屋町

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囲碁史記 第3回 本因坊算砂と織田信長

囲碁史記 第3回 本因坊算砂と織田信長

 

本因坊算砂は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人に仕えたという伝承があるが、それについて詳しく紹介していこうと思う。今回は織田信長である。
 算砂の伝承に関して囲碁史研究家香川忠夫氏の研究があり、これまでの伝承とともに見ていこうと思う。

名人の呼称

 算砂の資料に関しては伝説が多く、信憑性が低く推定になるところが多い。織田信長が「その方こそまことの名人である」と算砂に言ったことが名人の言

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囲碁史記 第4回 本因坊算砂と豊臣秀吉

囲碁史記 第4回 本因坊算砂と豊臣秀吉



 秀吉と算砂の関わりについて囲碁界の史料の中には存在するが、信長と同じく秀吉自身の信頼のおける記録の中には見当たらないのでなんともいえない。ただし、秀吉が囲碁を嗜んでいたことは公家の日記等確実な史料によって確認できる。
 囲碁好きであったのかは別にして、秀吉は囲碁を色々な駆け引きに使うこともあったようだ。

秀吉の囲碁に関する逸話

 囲碁が関わる秀吉の最も古い記録は『言継卿記』の元亀元年(1

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囲碁史記 第5回 本因坊算砂と徳川家康

囲碁史記 第5回 本因坊算砂と徳川家康



算砂と家康

 本因坊算砂と徳川家康の関りについては信長や秀吉と違い、囲碁界の史料だけではなく徳川家の史料にも記されている。
 家康の囲碁の記述が初めて見られるのは家康の娘婿、奥平信昌の子で姫路藩主の松平忠明が編纂したと言われる史書『当代記』の天正十五年閏十一月十三日の記述である。前年には、家康と秀吉が大阪城で会見し、この年は秀吉が九州を平定、聚楽第が完成し、北野大茶会が催されている。
 さて

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囲碁史記 第7回 織豊時代の碁打ち

囲碁史記 第7回 織豊時代の碁打ち

碁打ちの立場と浸透

 室町時代の後半、戦国時代と呼ばれる時期になると多くの「碁打ち」と呼ばれる人達が登場する。十六世紀中頃を過ぎたあたりで、末期には江戸時代へと続く本因坊たちが登場するが、その一世代前の碁打ち達である。代表的な人物として初代本因坊算砂の師匠といわれている仙也をはじめ、宗心、樹斎、庄林など多くの上手達がいる。
 当時の公家や神官などの日記類にはこれらの碁打ちが多く登場している。それ

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囲碁史記 第9回 本因坊算砂のライバル利玄

囲碁史記 第9回 本因坊算砂のライバル利玄


利玄のこと

 利玄は一世本因坊算砂とライバルとして多く対局をしている人物である。三コウが発生した本能寺の変前夜の碁の算砂の対局相手としても知られている。
 算砂と利玄の碁の力関係とはどのようなものであったのだろう。
 本因坊算砂や利玄の前半生の実像は不明な点が多い。算砂の利玄との対局記録もその一つであり、囲碁界では、初めから「強き算砂ありき」で物事が語られてきて真実に目が向けられていなかった。

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囲碁史記 第14回 安井家の隆盛と隔蓂記による囲碁記述

囲碁史記 第14回 安井家の隆盛と隔蓂記による囲碁記述


「隔蓂記」にみる安井家の動向

 「隔蓂記」は鳳林承章の記した膨大な日記である。鳳林承章は権大納言勧修寺晴豊の第六子で若くして鹿苑寺に入った。鹿苑寺は現京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺院で金閣寺の名で知られている。もともと鹿苑寺は室町三代将軍足利義満の山荘として建てられたもので、将軍家や公家の遊楽の場であった。当時、皇族や公家の子弟が有名寺社に入ることは通例となっていた。
 承章の記した『隔蓂

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囲碁史記 第15回 日本初の打碁集『碁傳記』

囲碁史記 第15回 日本初の打碁集『碁傳記』

 慶安五年(一六五二)に日本囲碁界において画期的な碁経が版本として刊行された。その版本とは『碁傳記』、日本初の打碁集である。

 慶安五年(一六五二)九月上旬
 加ラス丸通七□□町 (烏丸通七観音町)
 久須見九左衛門 開板

 上記は奥附に明記されたもので初版本である。
 この『碁傳記』が刊行されたことにより日本囲碁界が発展していったといっても過言ではない。
 平成八年五月に日本棋院は『江戸

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囲碁史記 第17回 大橋家の記録に見る算知・道悦の争碁

囲碁史記 第17回 大橋家の記録に見る算知・道悦の争碁


 遊戯史研究家の増川宏一氏により、伝承や逸話ではなく、日記や書簡等、確かな史料に基づく史実としての囲碁史(のみでなく将棋史を含む盤上遊戯史)が見えてくるようになった。その中で「大橋家文書」というものがある。大橋家は将棋の家元で、記録を遺すことに熱心であった各代の当主たちが記した文書である。中でも熱心であった五代目当主三世大橋宗桂が記した延宝二年(一六七四)の覚書には御城碁・御城将棋に関するものが

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囲碁史記 第18回 安井家の人材

囲碁史記 第18回 安井家の人材

 この頃の安井家の人々について見ていこう。

渋川春海

 渋川春海は初代の江戸幕府天文方として貞享暦を作成した人物である。元の名を安井算哲(二世)。一世安井算哲の実子であり、当初父の名を継いで囲碁方として幕府に仕えていた。父が没したとき算哲はまだ十三歳であり、安井家は父の養子となっていた門人の安井算知が継いでいる。家元の安井家や算知についてはこれまで述べたとおりである。
 算哲は幼少から学芸百般

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囲碁史記 第19回 安井家と会津藩

囲碁史記 第19回 安井家と会津藩


 安井家と会津藩の繋がりについてはすでに述べたとおりである。ここでは福島県在住の囲碁史研究家猪股清吉氏による郷土史と囲碁史を合わせた研究と見解を中心に安井家と会津藩との関わりを見ていこう。

土津神社の碁盤と碁石

 会津磐梯山麓に保科正之を祀る土津(はにつ)神社がある。その宝物として安井算知は碁盤と碁石を、安井算哲(渋川春海)は貞享暦関係書を奉納している。そのことが『新編会津風土記』や会津藩

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囲碁史記 第20回 本因坊道策の登場

囲碁史記 第20回 本因坊道策の登場

 四世本因坊道策は本姓山崎、幼名を三次郎という。正保二年(一六四五)に石見国馬路村(現在の島根県大田市仁摩町馬路)に生まれた。
 馬路にある延長約1.4kmの円弧状の砂浜「琴ヶ浜」は、歩くとキュッキュッと音が鳴る鳴砂として知られ、「日本3大鳴き砂」の一つとして国指定天然記念物及び日本遺産に認定されている。幼い頃の道策も砂浜を歩いていたのかもしれない。
 石見(島根県の西半分)の人々が尊敬している偉

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