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囲碁史記 第3回 本因坊算砂と織田信長

 


織田信長

本因坊算砂は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人に仕えたという伝承があるが、それについて詳しく紹介していこうと思う。今回は織田信長である。
 算砂の伝承に関して囲碁史研究家香川忠夫氏の研究があり、これまでの伝承とともに見ていこうと思う。

名人の呼称

 算砂の資料に関しては伝説が多く、信憑性が低く推定になるところが多い。織田信長が「その方こそまことの名人である」と算砂に言ったことが名人の言葉の初出とされていることもその一つであろう。
 天正六年(一五七八)、織田信長が上洛した際、算砂を召し出し五子で教えを受け、対局を見たりしてその技量に関心。それにより名人だと称えたと言われるが、当時、算砂(日海)は二十歳であり、果たしてそれだけの実力があったのか疑問があるとされる。 

安土宗論

 次いで安土宗論との関係である。
 安土宗論とは、信長が日蓮宗と浄土宗との紛争で、一方的に前者の敗北を宣言して迫害を加えたとされる事件である。
 この事件では日海の師匠で叔父の日淵が日蓮宗を代表する学僧として出場し、信長により恥辱と迫害を受けている。
 事件の概要を日淵の『安土問答実録』により紹介する。
 天正七年五月、関東の浄土宗の僧霊誉玉念が安土で説法をしていたところ、日蓮宗の門徒建部紹智、大脇伝介が異議を唱えたので、玉念は日蓮宗の僧を呼ぶように命じた。この事件に織田方は介入して、五月二十七日浄厳院で討論を行わせた。
 日蓮宗側は日珖・日諦・日淵・某(記録)の四名、浄土宗側は聖誉貞安・霊誉玉念・信誉洞庫・助念(記録)の四名、裁判官にあたる判者は、南禅寺景秀・同正稜・因果居士・法隆寺仙覚坊の四名であった。論戦は日蓮宗側の負けという判定が下ると(日蓮宗側が勝ったとする記録もある)、その場に多数が雪崩込み、日淵は顔面血まみれとなった。三名は信長の前に引き据えられ、宗論の原因となった門徒建部、大脇と群衆の中にいた僧普伝は処刑された。
 さらに信長は日蓮宗側に敗北を認めた詫証文の提出を命じ、日淵は釜茄でになっても書かぬと頑張ったが、門徒百名を殺すと脅され、やむなく詫証文を提出している。
 このとき、日海は二十一歳の若者であり、師をこのように迫害した信長の呼び出しに簡単に応じたとは考え難い。なお、信長が日海を知っていたため、師の日淵は助けられたというはなしもあるが、これも疑わしい。 

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