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囲碁史記 No.1

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囲碁史研究家の視点により、囲碁の歴史を貴重な資料をもとに解説。 No.1は本因坊算砂から道策まで。
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2023年12月の記事一覧

囲碁史記 第6回 本因坊算砂の貴重な史料

囲碁史記 第6回 本因坊算砂の貴重な史料

 本因坊算砂の頃より、実に多くの囲碁史に関する文献や史料が遺されるようになった。今回はそれらの貴重な文献を紹介していこうと思う。

本因坊碁経

 上の本はこれまで古書業界ではただ単に「碁経」という題で流通していた。今までこの版本に題の付いたものが発見されていなかったことがその原因である。序文はなく一頁目からの詰碁集となっている。その柱刻に「碁経」と印刷されているところから、その題名がついたと考え

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囲碁史記 第7回 織豊時代の碁打ち

囲碁史記 第7回 織豊時代の碁打ち

碁打ちの立場と浸透

 室町時代の後半、戦国時代と呼ばれる時期になると多くの「碁打ち」と呼ばれる人達が登場する。十六世紀中頃を過ぎたあたりで、末期には江戸時代へと続く本因坊たちが登場するが、その一世代前の碁打ち達である。代表的な人物として初代本因坊算砂の師匠といわれている仙也をはじめ、宗心、樹斎、庄林など多くの上手達がいる。
 当時の公家や神官などの日記類にはこれらの碁打ちが多く登場している。それ

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囲碁史記 第8回 徳川政権の始まりと囲碁界

囲碁史記 第8回 徳川政権の始まりと囲碁界


江戸幕府成立直前の囲碁界

 豊臣政権の時代、碁打ちの有力な後援者は吉田社や神龍院などの寺院や大名たちであった。もちろん豊臣秀吉をはじめとする豊臣家の人々もそうであったが、大名では徳川家康、細川幽斎等があげられる。
 豊臣秀吉が慶長三年(一五九八)に没し、朝鮮侵攻中であった武将達が撤退してくると、秀吉の武将たちの間で反目や対立が顕著となっていく。秀吉が亡くなって二年後に関ヶ原の合戦が起こり、勝者

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囲碁史記 第9回 本因坊算砂のライバル利玄

囲碁史記 第9回 本因坊算砂のライバル利玄


利玄のこと

 利玄は一世本因坊算砂とライバルとして多く対局をしている人物である。三コウが発生した本能寺の変前夜の碁の算砂の対局相手としても知られている。
 算砂と利玄の碁の力関係とはどのようなものであったのだろう。
 本因坊算砂や利玄の前半生の実像は不明な点が多い。算砂の利玄との対局記録もその一つであり、囲碁界では、初めから「強き算砂ありき」で物事が語られてきて真実に目が向けられていなかった。

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囲碁史記 第11回 本因坊算砂の後継者

囲碁史記 第11回 本因坊算砂の後継者


中村道碩

 二世名人となった中村道碩は京都の出身。本能寺の変があった天正十年(一五八二)の生まれである。慶長十七年(一六一二)、三十一歳の時には、師である本因坊算砂と共に幕府から五十石の禄を与えられている。五十石は算砂、利玄、将棋の大橋宗桂と同じであったが五人扶持は無かった。次世代のリーダーと目されていたのは間違いないが、上の三人とは差をつけられたということなのであろう。
 井上因碩の師匠で井

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囲碁史記 第12回 寺社奉行の設置と碁所

囲碁史記 第12回 寺社奉行の設置と碁所


寺社奉行の設置

 設立間もない徳川幕府は、国の安定統治を最優先課題に取り組み内部機構の確立を進めている。寛永九年(一六三二)に大目付が、寛永十一年には老中と若年寄が、そして寛永十二年には寺社奉行が設けられた。
 幕府では初め、慶長十七年(一六一二)に「黒衣の宰相」の異名を持つ以心崇伝と、幼少の頃に出家し還俗した大名の板倉勝重を社寺に関する職務にあたらせたが、具体的な役職は設置されなかった。三代

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囲碁史記 第14回 安井家の隆盛と隔蓂記による囲碁記述

囲碁史記 第14回 安井家の隆盛と隔蓂記による囲碁記述


「隔蓂記」にみる安井家の動向

 「隔蓂記」は鳳林承章の記した膨大な日記である。鳳林承章は権大納言勧修寺晴豊の第六子で若くして鹿苑寺に入った。鹿苑寺は現京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺院で金閣寺の名で知られている。もともと鹿苑寺は室町三代将軍足利義満の山荘として建てられたもので、将軍家や公家の遊楽の場であった。当時、皇族や公家の子弟が有名寺社に入ることは通例となっていた。
 承章の記した『隔蓂

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囲碁史記 第15回 日本初の打碁集『碁傳記』

囲碁史記 第15回 日本初の打碁集『碁傳記』

 慶安五年(一六五二)に日本囲碁界において画期的な碁経が版本として刊行された。その版本とは『碁傳記』、日本初の打碁集である。

 慶安五年(一六五二)九月上旬
 加ラス丸通七□□町 (烏丸通七観音町)
 久須見九左衛門 開板

 上記は奥附に明記されたもので初版本である。
 この『碁傳記』が刊行されたことにより日本囲碁界が発展していったといっても過言ではない。
 平成八年五月に日本棋院は『江戸

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囲碁史記 第16回 安井算知と本因坊道悦の争碁

囲碁史記 第16回 安井算知と本因坊道悦の争碁


争碁の概略

 安井算知と本因坊道悦の争碁について概略を記す。
 名人碁所をかけた二世本因坊算悦と算知の初の争碁(全六局)は引き分けで終わり決着はつかなかった。そして、第六局から五年後の万治元年(一六五八)に算悦が死去し、本因坊家は道悦の時代に移っていくが、算悦の没後十年経った寛文八年(一六六八)に突如安井算知の名人碁所が決定する。
 これには算知の後援者である幕閣の重鎮・保科正之の働きがけがあ

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囲碁史記 第17回 大橋家の記録に見る算知・道悦の争碁

囲碁史記 第17回 大橋家の記録に見る算知・道悦の争碁


 遊戯史研究家の増川宏一氏により、伝承や逸話ではなく、日記や書簡等、確かな史料に基づく史実としての囲碁史(のみでなく将棋史を含む盤上遊戯史)が見えてくるようになった。その中で「大橋家文書」というものがある。大橋家は将棋の家元で、記録を遺すことに熱心であった各代の当主たちが記した文書である。中でも熱心であった五代目当主三世大橋宗桂が記した延宝二年(一六七四)の覚書には御城碁・御城将棋に関するものが

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囲碁史記 第18回 安井家の人材

囲碁史記 第18回 安井家の人材

 この頃の安井家の人々について見ていこう。

渋川春海

 渋川春海は初代の江戸幕府天文方として貞享暦を作成した人物である。元の名を安井算哲(二世)。一世安井算哲の実子であり、当初父の名を継いで囲碁方として幕府に仕えていた。父が没したとき算哲はまだ十三歳であり、安井家は父の養子となっていた門人の安井算知が継いでいる。家元の安井家や算知についてはこれまで述べたとおりである。
 算哲は幼少から学芸百般

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囲碁史記 第19回 安井家と会津藩

囲碁史記 第19回 安井家と会津藩


 安井家と会津藩の繋がりについてはすでに述べたとおりである。ここでは福島県在住の囲碁史研究家猪股清吉氏による郷土史と囲碁史を合わせた研究と見解を中心に安井家と会津藩との関わりを見ていこう。

土津神社の碁盤と碁石

 会津磐梯山麓に保科正之を祀る土津(はにつ)神社がある。その宝物として安井算知は碁盤と碁石を、安井算哲(渋川春海)は貞享暦関係書を奉納している。そのことが『新編会津風土記』や会津藩

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