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私はヤドカリ『2023.11.20』

日記を読み返して今日の日記を書こうと思って、気付いたら寝てしまいました。

徐々に文字数が伸びていく私の日記。
いつもご覧頂きありがとうございます。
今後ともよろしくお願いします。

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今日の私。
気付けば日が暮れていた。

毎日何かがあるわけではないから、何かがあったように書かなくてもいいのだけれど、書き始めれば止まらなくなってしまう。

日記を始めてから二週間分の日記を読み返した。そこで気付いたことがあって。


未来に希望がある。


辞められた事が嬉しかったのか、創作が出来て楽しかったのか、とても楽観的な内容が多かった。

かと思いきや、今日は何も出来なくて生きている意味が無いと落ち込んだりしている。けど次の日には治って、誰かとご飯に行っていたりする。

楽しそうな自分がいた。


それと、自分の辞めた意味を見出そうとしていたことにも気付いた。

今日はこれをした、昨日はこれをした。
自分が一日一日成長したと言いたくて仕方がない気がした。

一歩一歩進めるようになった赤ちゃんのようだった。

赤ちゃんは進めば進むだけ褒められるし、褒められたら喜ぶし、どんどん進むし。
それを自分の日記で再現しようとしていた。


私は口から発する言葉は、どこの器官も通ってないんじゃないかというほど無責任に出てくる。お世辞や小さな嘘ならポンポンと出てきて、その場のノリにも上手く乗れる。

でも、文章はまた違う。

文章で表す私の言葉は、どれも自分への戒めだ。

話すことで生まれる言葉は、一語一句振り返ることが不可能だが、文章は見返すことが出来る。私は自分の日記や創作を見返すと「こんなん誰が書いたの?」という、他人行儀な気持ちが出てくる。自分が「書いた」記憶はあるけど、自分が「考えて発した」記憶はないのだ。もし話すことで生まれる言葉が目視出来るようになったら「こんなん誰が言ったの?」となるんだと思う。

私の言葉はいつだって、私の中にいる他人が作っているのだ。だから自分の文章だと思えない。文章を書く時は違う人間が働いているのかと思うくらい。

だから私は、私の人生の全てにおいて無責任で適当なのかもしれない。

自分の言葉って、本当は無いのかもしれない。常に何かになりきっていて、常に自分が乗り移れる所を探し求めているのかもしれない。そうして自分の中で自分の居場所を見つけているのだ。

今日はこの場所この人。明日はこの場所この人。あらゆる私を使い分けている私。

もう二十三なのに、自分のことで精一杯だ。

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