2020年10月のひとりごと

朝4時 稲刈りを始める
辺りは真っ暗。月がなければ雲が多く星も少ない
頭に付けたライトが吐いた白い息を照らす
夜明けを知らせるように鳥たちがさえずりだす

滋賀旭を植えた田は水はけがわるいので、稲の多年草化の実験に適していると思い、今年は外周の稲の茎を残すように刈っています
多年草化の肝は、不耕起、冬期湛水、刈る位置かなと限られた情報から憶測したのだけれど、さてどうなりますやら。

来年もこの田んぼをお借りするかどうかも未定なのですが、
自分の中に経験として残るのでなんの問題も感じません
そして、その経験は子供達にも必ず残ります

例え引っ越しをして再度、耕作放棄地を再生することになっても全く無駄ではなく、半年ほど経って身体的にも精神的にも成長した子供達と再び放棄地再生の経験を積むことができるのですから。

農作業からは生かされているという実感を得ることができるので好きです。肌感覚で具体的に素直で嘘がありません。
それを子供と共有できるのだからなおのこと。

直線的時間の流れではなく、水の流れのような。四季の移ろいのような。
我が子の成長を目を細めてみる私自身もかつては親に同じように見られ、子もまた同様であろうというような。そしてそうであってほしいと願う気持ち。
作物を育てる行為にはそれらと通じるものがあります。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。
たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人の住まひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。
住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。
朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。
知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。
また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。

鴨長明

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