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好きなタレント〇〇〇〇

それは1977年、小学校6年生の秋だった。夕方のテレビ番組「ぎんざNOW!」の木曜日「ポップティーンPOPS」という洋楽ポップス・ベストテンのコーナー、当時の日本国内の洋楽シーンはベイ・シティ・ローラーズ(BCR)やディスコ・ミュージック全盛、そのBCRと関連グループの曲たちの中、その曲は初登場で3位に入って来たのだった。

白と黒のタイツに身を包み、バレエのような振り付けで歌いあげる迫力のボーカルと、ランキングされている他の曲とまったく違うサウンドに完全にヤラれたのだった。洋楽を本格的に聞き始めるキッカケのひとつだった。

次の週「伝説のチャンピオン(WE ARE THE CHAMPIONS)」は、BCRの「ハートで歌おう(DON'T LET THE MUSIC DIE)」を退け1位に躍り出た。
何日後か、私は600円という小学生には高価なシングル盤を買った。それが自分で初めて買った洋楽のレコードだったと思う。
小学校の卒業文集のプロフィールやサイン帳には「好きなタレント:クイーン」と書いた。

その後は「イッツ・レイト(IT'S LATE)」、「バイシクル・レース(BICYCLE RACE)」、「ドント・ストップ・ミー・ナウ(DON'T STOP ME NOW)」などシングル盤は買っていたが、中学生になっても、アルバムはやはり高嶺の花、ラジカセで、FMの特集番組をエアチェックするしかなかった。

高校生になり、最寄りの駅の近くに貸しレコードができて、新しいアルバムだけでなく、遡って過去のアルバムを借りた。もちろんその後はCDも買った。
シンセサイザーを使用したり、サウンドは変わってもフレディ・マーキュリーの唯一無二のボーカルは変わらず、カッコよかった。

80年代の初期は「愛という名の欲望(CRAZY LITTLE THING CALLED LOVE)」と「地獄へ道づれ(ANOTHER ONE BITES THE DUST)」が全米No.1となり絶好調だった。しかしサウンドが変化し、離れたファンも少なくはないのだろう、1984年の「RADIO GA GA」の16位を最後に、ビルボードではトップ40入りがなく80年代中盤からは低迷期ともいわれ、好き嫌い、賛否両論ではあるが、UKチャートではコンスタントにトップ40入り、トップ10ヒットも数々残している。
実験的なサウンドを取り入れたり、原点に戻ったようなサウンドを演ってみたり、低迷期というよりは混迷期だと思う。何より1985年の「LIVE AID」でのパフォーマンスや1986年のウェンブリー・スタジアム・ライブは、パワーアップしていて圧巻であった。

21世紀になってから、キムタク絡みのブームやフレディのソロ曲をクイーン名義でリメイクしたりは「うーん・・・解せない。」と思って乗らなかったし、「I WAS BORN TO LOVE YOU」はフレディのソロの曲だとずっと言いつづけている。

出会いから47年たつが、大きな後悔がある。チケットが手に入らず1985年の国立代々木競技場(代々木体育館)のコンサートに行けなかったことだ。まさかあれが最後の来日公演になると思わなかったよ。本当に伝説になってしまったな・・・

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