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御国を思えば Ⅰペテロ4章3節

2022年6月19日 礼拝

【新改訳改訂第3版】Ⅰペテロ
4:3 あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。
ἀρκετὸς γὰρ ὁ παρεληλυθὼς χρόνος τὸ βούλημα τῶν ἐθνῶν κατειργάσθαι, πεπορευμένους ἐν ἀσελγείαις, ἐπιθυμίαις, οἰνοφλυγίαις, κώμοις, πότοις, καὶ ἀθεμίτοις εἰδωλολατρίαις.

S. Hermann & F. RichterによるPixabayからの画像



| はじめに

古代ローマ帝国は、規模においても、歴史的な価値、文化面においても人類の文化に大きな足跡を残しました。その文化を育み、支えてきたのは、皇帝や上流階級、ローマ市民たちではなく、名も知れぬ多くの奴隷たちや、虐げられてきた人々の汗と涙がありました。文化面において、人類に多大の影響を与えた古代ローマの文化でしたが、その内実を見ていきますと、その華麗な文化とは裏腹に、文明を享受するローマ市民たちの非常に醜悪な側面がありました。人々に価値ある人々として尊敬を受け、憧れを受ける貴族やローマ市民たちでしたが、その思想や人生の根底にあったものは、限りある人生を謳歌することにありました。それは、刹那主義に基づくものであり、この世を謳歌するために、奴隷を犠牲にさせるという罪を犯しながら、自分たちの人生を楽しむことに専心することが、文化と呼ばれるものの本質でした。

今回は、こうした刹那主義に基づく人生から離れる意味を考えていきたいと思います。

| ローマ人の死生観

1 世紀半ば頃に書かれた、ネロ帝時代の風刺小説であるペトロニウスの
『サテュリコン』の記述の中で、功成り、奴隷から晴れて市民権を獲得した解放奴隷の富豪トリマルキオは、我が世の人生を謳歌したかのように思いますが、彼の豪勢な饗宴の最中に骸骨の模型を持ち込ませ、こう憂い嘆いたとあります。

「ああ、わしらはなんと哀れな奴か。人は皆空の空。
死神オルクスがわしらをさらっていくと、みなこうなるのさ。
されば、元気なうちに楽しもうではないか」

『サテュリコン』34 國原吉之助訳

そうした一般の人々の刹那主義に対する意識の背景には、人々の報われない人生の諦めというものも背景にはあったようです。

キリスト教に先立つ古代ギリシア・ローマ世界では、密儀や一部の思想を除けば、基本的に復活や輪廻の考えはなかった。人々は死者を愛しい者として記憶し、彼らが安らかであることを願ったが、おそらくそれ以上に、死者が生者に害をなすことを恐れてもいた。天国や極楽のような、死後の楽園は存在しない。もちろん死者の魂は存在し、亡霊も出現するが、それ相応の埋葬の儀式によって宥められた死者の魂には生前の「自己」は残ってはいない。人々は自己を保ったまま天国に至ることではなく、自己の意識が残らないということに「安らかな死」を見出していたように思える。

西洋古代における死とその表象 芳賀 京子
東北文化研究室紀要 巻 54 P 96

ローマ人の墓碑にはNF F NS NCという略語が散見する が、これは「私はかつて存在せず、そののち存在し、そして今は存在していない。私は何も思い 悩まない」という意味である。骸骨の図も、死んだら何もないのだから今を楽しめ、という意味 だったのだろう。

西洋古代における死とその表象 芳賀 京子
東北文化研究室紀要 巻 54 P 98

| 死後があることの意味

こうした、古代ローマ社会にキリスト教が送り届けられたということは、刹那主義の文化に大きな影響を与えたことは言うまでもありません。この世しか存在は無いとする思想に対して、キリスト教は、死後があること、それもイエス・キリストを信じる者には、永遠のいのちがあること、信じない者は永遠の滅びがもたらされると聞いた人々は戸惑ったに違いありません。
死後が確実にあるとするならば、また、死後にさばきがあると考えるならば、他人の幸福や人生を犠牲にしても、自分の人生を謳歌しようという考えは浮かばないはずです。ローマの人々は、死後がある。また、死後にさばきが控えているという考えは毛頭もなかったわけですから、自分の行動に責任も持たないのは当然ですし、自分の享楽のために過ごすということは当然の権利として考えていたわけです。そうした、古代ローマの思想に福音は対決をもたらしたものと言えましょう。

| 偶像礼拝(エイドロン)とは

死後はないと考えていた古代ローマの人々ではありましたが、葬儀は死後の魂にとってことのほか重要なこととみなされていました。
古代ローマは、その文明の起源を古代ギリシャに負っていますが、古代ギリシャと同様にローマにおいても、幽霊や亡霊の存在は認めていたようです。

 古代ギリシャの死後について

ところで、古代ギリシャの亡霊について芳賀 京子氏は下記のように記しています。

死者の魂は死後、魂の導き手であるヘルメス神に連れられ、はるか彼方、地下深くにある冥界 (ハデス)へと向かう。そしてカロンの渡し船で三途の川(ステエクス)を渡るのだが、葬儀が 執りおこなわれなかった魂は「ハデスの館」に入ることができず、亡霊としてさまようこととなる。 神話文学ではなく、実際に亡霊が「出た」という話も伝えられている。オルコメノスでは、岩 を持ったアクタイオンの亡霊が土地を荒らしため、人々は神託に従い、アクタイオンの遺骨を見 つけて埋葬し、その亡霊のブロンズ像をつくって鉄の鎖で岩に縛り付けた。そして毎年、彼に英 雄としての犠牲式を執りおこなったという。 つまり、亡霊(ェイドロン)は実体のない影のような存在ではあるが、どうやら生前の姿を保っているようである。哀英の儀式を経てしかるべく埋葬されたならば、死者の魂(プシュケ)はハ デスに入り、苦痛のない状態に至る。知力も気力もとどめず、 「夢みたように、体を見捨てふら ふらと飛び交う」存在となるのである。だが埋葬されなかった死者の魂は宥められることなく亡 霊としてさまよい、ついには崇ることもある。

西洋古代における死とその表象 芳賀 京子
東北文化研究室紀要 巻 54 P 96-97

古代ギリシャでは、土葬された遺体は、 1ケ月もすれば土に還り始め、身体が消 滅するとともに、魂も苦痛から解放され、恨みやしがらみに縛られていた自我も消え去ると考えられていたと芳賀氏は言います。ある程度の死後の世界の存在をギリシャ人はもっていたようですが、永遠という定義は無かったようです。

 偶像礼拝(エイドロン)の原義

芳賀氏の論文で、興味深いのは、亡霊(ェイドロン)の記述です。
このエイドロンεἴδωλονというギリシャ語は、英語のアイドルということばの由来となった言葉です。

今回取り上げた第一ペテロ4:3の中にεἰδωλολατρίαις(エイドーロラトレイス)偶像礼拝と訳された言葉がありますが、その原型にあたる言葉です。

エイドロンとは、聖書では、『偶像、偽りの神』というように訳出されますが、『亡くなった人を偶像とすること、幻影、幽霊』という意味になります。

聖書では、ギリシャ人が怖れていた幽霊や亡霊、亡くなった人を神とすることを偶像礼拝や偽りの神として見ているということです。

 古代ローマにおける亡霊

これに対しローマでは、マネスという生前の人格を維持していない魂の集まりのようなものの存在が信じられていた。パレンタリア祭やレムリア祭は、マネスを宥めるための死者の祭である。一度、パレンダリア祭が行われなかった時などは、火葬の熱でローマの気温は上がり、亡霊たちのうなり声が街角に響き渡ったというから恐ろしい。

西洋古代における死とその表象 芳賀 京子
東北文化研究室紀要 巻 54 P 97

このように、ギリシャとは異なるものの、死後を信じないとしていたローマの人々であっても、死者の魂や、亡霊というものの存在は認めていました。
芳賀氏の論文にパレンタリア祭の記述がありますが、

この「パレンタリア(Parentalia)」とは死者と宥和する、つまり対立する亡霊を寛大に扱って、仲よくすることが目的でした。生者と死者がある一定の畏怖による距離を保ちながらも親しく交流するという、日本のお盆と似た要素が強い祭儀だということです。その点が荒ぶる死者を宥(なだ)めるという要素の強いレムリアと対照的であると小堀馨子氏は東京大学宗教学年報 27, 31-44の中で記しています。

古代ローマの人々は、死後魂はなくなると考えてはいたものの、実際は、死者の霊におびえ、何とか霊を鎮められないかと考えて祭りを行っていたものと考えられます。死者の霊の祟りを怖れていたことが、偶像礼拝の基礎になっていたことがわかります。

| 放蕩の背景

Ⅰペテロ4:3 あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。

マネスという魂の集合体の他に、もちろん個々の死者に対しても手厚い供養がおこなわれた。
故人のことを記憶に嘗めるだけでなく、古くはデスマスクをとることもあり、後には大理石やその他の石を用いた肖像彫刻が熱心につくられた。葬式は大筋ではギリシアと同じで、遺体は寝台に安置され、その後、葬送行列となる。上流階級に属する人物の場合、この行列は泣き女や楽隊、先租代々の肖像なども伴う豪華なもので、町の広場で死者を顕彰すが寅説がおこなわれた。埋葬はギリシア同様、町の外と決められていた。埋葬後は清めの期間であり、9日目に正餐をおこなって一連の葬儀は終わりを告げる。死者の誕生日や命日にも、墓では一族そろって宴会が催された。
死者の供養において会食は重要な役割を担っていた。豪勢な墓の中には宴会の席や台所が備わっているものもあったほどである。

西洋古代における死とその表象 芳賀 京子
東北文化研究室紀要 巻 54 P 97

古代ローマ社会では、過度の欲望がもてはやされていたことを前回語りました。その背景に現世主義や刹那主義があったことを述べましたが、今回のみことばを見ていきますと、その背後には、亡霊を恐れるがため、供養のために過度な宴会も催されていたということが浮き彫りになります。思想面だけではなく、彼らの宗教観も過度の欲望に拍車をかけていたということです。

ペテロが、Ⅰペテロ4:3で、古代ローマのクリスチャンたちに何を問いかけたかったのかといえば、彼らの現世主義、刹那主義の深層には、ローマ人の宗教観が深く根ざしているということです。
そうしたものを決別し、主イエス・キリストを信じた今、死後の救いというものを獲得したキリスト者は、もはや、過去の偶像礼拝のときの思想には立ち戻ることはないだろうというのがペテロの提言です。

 悪霊の奴隷

なぜ、私たちが、『好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝』を行わないのかと質されたとき、私たちは何と答えるでしょうか。
聖書がそう言っているからそうしているというだけでは、足らないでしょう。私たちがそうしたことと関わらないのは、『永遠のいのち』をキリストの救いによって得ているからです。神から離れた古代ローマの人々は、亡霊を怖れ、そのために、亡霊(悪霊)との宥和を図るために祭りを行い、進んで、亡霊の奴隷となっていました。
その結果、ローマ市民、奴隷に関わらず、彼らはエイドロンの奴隷と成り果てていました。そうした、霊的な死は、不品行や不道徳を妥当なものとし、底しれぬ欲望を得であるとか、美であるとした歪めた心性をもたらし、ついには、死後のさばきというものを認めず、自分たちの罪には目をつぶり、責任を放棄し、死んだら終わりという思想に帰結していったものと思います。

悪魔をはじめとする悪霊は、今も、この世界の権を握り、人々をまことの創造主から離れさせ、欲望や自分さえ良ければ良いという思想をまことしやかに人間に語り惑わせています。世界が終焉に向かいつつある今、真実がフェイクとされ、神の定めた摂理を覆そうという思想が、世界の人を虜にしていることを私たちは忘れてはなりません。
主イエスは、サタンによって誘惑された時を思い出してください。

ルカ4:5 -8
また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、 こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」イエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい』と書いてある。」

新改訳聖書第3版 いのちのことば社

祝福されているものや人物を見て、私たちはしばしば、それは神の祝福だと思わないようにしてください。

Ⅰペテロ4:3 『好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝』は、一見したところ、当時の世に照らして考えるならば、それは祝福に見えることです。豪勢な供養や葬儀は裕福であり、富がなければできないことです。成仏というのは適切ではないとは思いますが、死後、死者の魂(プシュケ)はハ デスに入り、苦痛のない状態に至るには、富が何よりも物を言いました。

過去のローマの人々と同様に、現実の富や経済を見たときに、私たちはどういう反応を示すでしょうか。神から祝福された人だと見て良いものでしょうか。そうではありません。サタンがこの世の富を与える存在としてあるということから見ても、私たちは騙されてはいけないのです。

私たちは、現世に生きながらも、軸足はこの世ではありません。私たちの国籍は天にあります。天国の国籍を持つ者としてこの世をどう生きているでしょうか。巧妙にサタンは私たちを騙します。所属の規模が大きいこと、富がが大きいことそういうことを誇ってはいないでしょうか。私たちは、些細なことを偶像としてしまいがちです。その結果、罪を罪と認めず、自分の権利として厚顔し、肯定していった結果、神を見失うということに繋がりかねないものであるとのことの認識を深めて頂きたいと思います。

ロマ 6:22
しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。



参考資料

古代ローマにおける死者祭祀 : パレンタリア(Parentalia)祭考
小堀 馨子 東京大学宗教学年報 27, 31-44

西洋古代における死とその表象
芳賀 京子 雑誌名 東北文化研究室紀要 巻 54 ,96-98