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『神が待つアドベント』 2023年アドベント第一週 

2023年12月3日 礼拝

創世記3:15
わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

タイトル画像:Bruno JungwirthによるPixabayからの画像

はじめに


今日から2023年のアドベント(降誕節)が始まります。クリスマスの前の一ヶ月間、教会ではキリストの降誕を待ち望む期間をアドベントと呼びますが、巷では、クリスマス商戦に突入しており、街はすっかりイルミネーションが飾られ、一気にクリスマスの色に染まっていまして、むしろ教会暦の方が遅れて、ようやくアドベントの時期を迎えたような感じがします。
さて、今回のアドベントは、メシアを待望しているユダヤ人の歴史から、各時代におけるメシアの待望について見ていこうかと思います。まずは創世記の原始福音を取り上げます。

神の約束としてのメシア


聖書は一貫したテーマで書かれていますが、その中心は『救い主』(メシア)について証言しています。つまり、聖書全巻を通して、その主題は人間世界へのキリストの到来(アドベント)について書かれていると言っても過言ではないでしょう。ただし、メシア待望への期待は各時代において、それぞれの様相は異なります。私たちが考えるような、救いであるとか、救い主への待望というよりは、まず神の側からの約束がその中心であることです。

神の側からの約束であるアドベント

救いの約束というのは、罪の歴史と重なるものです。
最初の人であったアダムに神からの命じられていた言葉があります。

創世記
2:15 神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
2:16 神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

16節で神は『命じて仰せられた。』とあります。ヘブル語ではוַיְצַו֙(ウィソー)という言葉ですが、「命令する、命令の重要な役割と内容を強調する」意味に用いられる言葉です。それは、完全な権威をもって命令し、従った場合の祝福、または従わなかった場合の呪いをもたらす厳粛な言葉でもあります。アダムに対して、神の絶対的な命令に対して、その命令を守ることの祝福と破ることの呪いを聞いていたのにもかかわらず、アダムとエバは蛇の姿をとった悪魔にそそのかされ、善悪の知識の木の実を食べてしまいます。

創世記
3:1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

こうして、神からの命令を破り、死が入り込んできました。

創世記
3:16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」
3:17 また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
3:18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」

さらには、罪のないときにあった『永遠のいのち』という祝福が損なわれてしまします。それが、死がもたらした呪いでもあります。

3:22 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。

死というものはどんなものであるのか

さて、死というものがどういうものであるのかについてですが、旧約聖書は、神がはじめの人であったアダムに対して、創世記2:17で『善悪の知識の木からは取って食べてはならない。』と強く警告したものの、彼らが不従順であったため、死を宣告されたと書かれています。(創世記3:19)

聖書が伝える言葉が真実であるとすると、死は生物的、生理的な現象ではなく、罪を犯したために科せられた刑罰ということになります。
死は罪から生まれたものであると聖書は一貫して強く主張します。

さらに聖書が伝えるこの死とは、生物的、肉体的な死にとどまらず、霊的な死をも意味します。

霊的な死は何を人間にもたらしたのかといいますと、アダムとエバが神との交わりを失うことになりました。それまでは、神との人とは話し合い、お互いが友と呼べるような関係でした。ところが、木の実を食べてからは、神から隠れるようになりました。

創世記
3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

罪の結果

 罪を犯してからというものの、神に対して後ろめたい気持ちが生じたとともに、神がともに生きることができたエデンの園から追放されてしまいます。

創世記
3:23 そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

エデンの園とは、神の臨在とも言いかえる事ができます。つまり、人間は、エデンの園から追放されただけでなくして、神との交わりすらできない状態になってしまったのです。

その結果、人間は神のみこころに背き、その魂は神から離れ、自己中心に歩むようになり、こうして人間は死に値するものへと堕落してしまったのです。これが、現代に至るまで人間社会、文明を狂わす混乱させる原因ともなっているのです。

責任を放置しなかった神


 人が罪に堕ち、死が人間の間に侵入してきました。神は勝手に人間が約束を破り、木の実を食べたのだから、放っておけばいいとしたでしょうか。いや、そうではありません。

神はすぐに救いの道を開いて下さったのです。神学のなかで原始福音とも言われる創世3:15にはこう書かれています。

創世記
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

新改訳改訂第3版

この節は、ユスティノス(160年頃)やエイレーナイオス(180年頃)以来、しばしば原福音(プロトエヴァンゲリウム,protoevangelium)と呼ばれており、聖書で最初のメシア預言であるされてきました。

この15節は、蛇となった悪魔に対して神が宣告した言葉です。要約すると『神は、誘惑したサタンと誘惑された女との間には子々孫々にいたるまで戦いがあること、女の子孫がサタンの子孫にではなく、サタンに致命傷を与える。』というように解釈することができます。

女の子孫とは、『イエス・キリスト』です。ですから、メシアであるイエス・キリストが人に罪をそそのかしたサタンに対して勝利するという預言がここでなされているということです。

最高の被造物としての人間

神は、人類を創造するにあたって、人間をプログラム通りに動くロボットのようにしたのではなく、自由意志を持ち、同時に自律的に思考し行動する存在として人間を創造しました。

人間はその意志によって神を求める事もできるし、同時に背くこともできるような高度な被造物として造られたのです。つまり、最終的に神の責任が問われるような製品ではなく、最後まで自分で責任を負える、問われる存在として人間を創造した点が人間とロボットの大きな違いになります。

そうした責任を負える存在として人間が創造されたのですから、そもそも神は人間が犯した罪に対して責任を取る必要がありません。当然のことながら、自分の犯した罪は自分で償うことが求められるわけです。

ですから、アダムとエバが犯した罪に対する刑罰は、自業自得であると言わざるを得ないものですし、本来ならば、救済を与える必要のないことです。

しかし、神は愛のお方ですから、罪を犯して、さばきにあうことを望んではいません。人間を奴隷としてではなく、神のパートナー、友として人間を創造した。いや、神の子供として我々を造られたわけですから、神は人間が罪を犯して、滅んでしまうことを決して座視できませんでした。

神は、人間の弱さを知り、罪をおかしてしまう者であるという救い主を与え、その御方を信じることで救われることを示してくれました。それが創世記3:15節の言葉です。

神は人間に誠実に応えるお方

神は、人との間に立てた契約を軸として、歴史の中で救いを明白に示されました。それは、神は人間との契約を守り、これを実現に至らせるひとつひとつの出来事の中で神の誠実は現されてきました。

創造にあたって御自身のかたちに人間を造り、人間との間に永遠のいのちの契約を結ばれました。しかし、堕落した人間の罪の責任を明らかにした上でもなお、女の子孫が蛇のかしらを砕くとの約束を与えられ、ノアとの間に祝福の約束を結ばれていきます。さらにアブラハムを選び、その子孫に永遠の祝福を与え、彼らを通して諸国の民を祝福するとの契約を結びます。さらにモーセを立ててイスラエルの民をエジプトから救い出し、シナイ山で契約を結び服従を求めました。さらにダビデを王として立て、ダビデのすえから永遠の王座に着く者が出るとの約束を与えられます。

ソロモンの死後、南ユダ王国が滅亡し、バビロン捕囚となりますが、ユダヤ人はバビロンから解放され、エルサレムに帰還が果たされていきます。神は、その都度、契約の民に対して約束を守り、誠実にその約束を果たしてきました。ついには、御子キリストを救い主としてこの世に遣わされるという終りの時代における預言の成就へとその契約を実行してきました。

あなたを待っておられる神

それは何のためであるのでしょうか。それは、あなたが、神の民となり、神とともに永遠の祝福にあずかるためです。

こうして神は、誠実に人間に応えてこようとしました。完全なものとして人間を自由意志を持つことのできる、すなわち責任を負える存在、『神のかたち』として創造しましたが、人間はその失敗の責任から逃れ、責任を転嫁しました。罪の責任はない、いや、我々を創造した神に責任があるとして詭弁を叩く人類に対して、神は諦め、滅ぼすことに決めたかというとそうではありません。歴史の最後に至るまで救いの手を差し伸べることを差し控えることは決してないのです。

それが、救い主イエス・キリストがメシアとして与えられるという約束です。罪深い私たちは、本来ならば罪を自分で背負って、負いきれない罰を負わなければならなかったのにも関わらず、救い主イエスという存在を与え、その御方を信じるだけで負いきれない罰から救われる。私たちを罪という暗黒から救い出す救済をもたらし続けている。

アドベントは、人間がクリスマスを待つのではなく、神があなたが救われることを待っている時であり、あなたが救われることが神にとってのクリスマスなのです。今、あなたがイエス・キリストを信じ、罪からの赦しを得て、永遠のいのちの約束をいただいてほしいというのが、神の切なる願いであり、喜びであることを知っていただきたいのです。アーメン。