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聖書の山シリーズ4 モーセ終焉の地 ネボ山(ピスガの頂)

Mount Nebo, view to north east. Photo by Berthold Werner


2022年8月14日 礼拝

聖書箇所 申命記34章1節-3節


申命記34:1
モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。主は、彼に次の全地方を見せられた。ギルアデをダンまで、
34:2 ナフタリの全土、エフライムとマナセの地、ユダの全土を西の海まで、
34:3 ネゲブと低地、すなわち、なつめやしの町エリコの谷をツォアルまで。
34:4 そして主は彼に仰せられた。「わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう』と言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡って行くことはできない。」
34:5 こうして、主の命令によって、主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。


はじめに

今回取り上げる山はネボ山です。ピスガの峰として聖歌では歌われる山ですが、この峰は、モーセが亡くなった地として有名な場所になります。信仰の偉人モーセの最期を飾るにはふさわしい地であるこのネボ山をご紹介いたします。


ネボ山

ネボ山はヨルダンのアバリム山脈の峰の一つです(民33:47)。アバリムとは「かなたの地方」という意味で、パレスチナ住民が呼んだ名前であるということです。ユダ山地から東を見ると、死海の向うに帯紅色のヌビア砂岩から成るアバリムの山々が地平線として見えます。

                                                Madaba Hills from Mount Nebo at sunrise.  Photo by Raya Sharbain

標高が平均1000メートルの山々が、北はヘシュボンから南はワディ・ゼルカ・マインまで続いており、ネボ山は現在のジェベル・エン・ネバ(標高802メートル)にあたるそうです。

アバリム山脈の主峰の一つであるネボ山は、死海から見上げると、1200メートルの山に見えます。死海の東北端より東約9キロメートルの位置にあることから、山頂からはイスラエルの聖地の全景と、北にヨルダン川渓谷の一部が展望できる場所にあります。
頂上からは、エリコの西岸地区の町が見え、よく晴れた日であればエルサレムも望むことができるそうです。

                                       A view of the Dead Sea from atop Mount Nebo, Jordan. Photo by   9999


申34:1に出てくるピスガの頂上は、ネボ山の西方にあり、鞍部で隔てられたラス・エス・シアガ(標高700メートル)とされています。
そこからは、死海が眼下に横たわり、荒野を見下ろすことができます。
この頂でモーセは、この山頂から約束の地を見渡して死んだとあります。

ヨルダンの地

モーセの最期の地は、ヨルダンの地でした。神がヘブル人に約束した乳と蜜の流れる地カナンとは対象的な場所です。ヨルダンは乾燥した砂漠気候。一方のイスラエルは地中海の影響を受けるため草原気候というように大きな違いを見せます。その違いはどこにあるのかといいますと、イスラエルの中央高原地域が分水嶺となり、冬に地中海からの湿った空気は中央高原地域で雨を降らせます。その後、乾燥した空気となってがヨルダンの方へと流れていきます。また、中央高原地域に降った雨は、地下を通り、水が西側から東側に流れます。いくつかの泉が死海に沿って湧き出し、オアシスとなっています。ところが、死海やヨルダン川を挟んで対岸のヨルダンは、乾燥しきった砂漠の地となっています。

その象徴となるのが、ヨルダン川と死海地溝は、乳と蜜の流れるカナンの地の違いを決定的に分ける象徴とも言えます。

モーセの生涯

モーセの死を告げる神

これからカナンの地にヘブル人が入ろうとする前に、神はモーセに語ります。

申命記
31:1 それから、モーセは行って、次のことばをイスラエルのすべての人々に告げて、
31:2 言った。私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。主は私に、「あなたは、このヨルダンを渡ることができない」と言われた。
31:3 あなたの神、主ご自身が、あなたの先に渡って行かれ、あなたの前からこれらの国々を根絶やしにされ、あなたはこれらを占領しよう。主が告げられたように、ヨシュアが、あなたの先に立って渡るのである。

いのちのことば社 新改訳聖書第3版

そのため、モーセは120歳の時に、神からのお言葉を受け取りました。その言葉は、預言者モーセにとっては悲しいお知らせであったことでしょう。モーセはエジプトからの脱出を促し、民をシナイ半島まで導いた歴史的な業績を成し遂げてきました。この業績の背景には、神の言葉を信じてカナンの地に入れるという期待がありました。モーセ自身も、自分が生きている間にカナンの地に入ることを夢見て、ヨルダンの地までやってきたのかと思います。しかし、カナンの地を目の前にした時、神からモーセに告げられたのは、ヨルダン川を渡り、カナンの地に進むのはヨシュアであるということでした。モーセがこのお言葉を聞いた時、彼は一体どのように感じたのでしょうか。自分が今まで神の目的のために尽力してきたのに、それを果たすことができないと知った絶望感もあったのではないでしょうか。同時に、後悔の念もモーセの心によぎったのではないかと思います。

モーセの人生

彼の人生を振り返ると、若い頃はエジプトの王家で恵まれた暮らしを送っていました。しかしながら、同胞のユダヤ人が虐待と酷使の日々を過ごしているのを見かね、彼は虐待者であるエジプト人を制裁しました。この出来事から彼の人生は波乱に満ちたものとなりました。エジプトの王パロによる追及を受けた彼は、逃亡し、他の国に身を寄せます。そこでは老齢に至るまで羊飼いとして暮らすこととなりました。80歳の時、モーセはシナイ山で主の使いが現れ、燃える灌木を通してメッセージを授けられます。なお、この主の使いとは、イエス・キリストの前世であるとされています。そして、神は自らを「わたしはある」と名乗られました。イエス・キリストもまた、「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』と言われた」と宣言された方です。こうして神は、モーセを遣わしてヘブル人をエジプトの奴隷から救い出すため、パロとの対決に臨まれました。

パロとの戦いに勝利し、エジプトからの脱出を実現したものの、シナイ半島における生活はヘブル人にとって敗北の連続でした。それは、不信仰の軌跡と言っても過言ではありません。かつてはエジプトの奴隷であったヘブル人たちは、口々にエジプトの生活を懐かしみ、その生活に戻りたいと述べます。そのたびに、神からの罰が続くという不毛な荒野の生活を送り続けました。カナン地に入るためには徒歩で約20日ほどの距離だとされていますが、ヘブル人たちは、カナンの住民であるカナン人との戦いを恐れて、40年間もの間、荒野をさまよい歩くことを余儀なくされました。このように見ると、モーセの120年という人生の中で、青年期までを除いた期間は、家を持つことや富を得ること、自己実現のような要素とはまったく関係のない生活であったことがわかります。彼の人生の大部分は、否が応でも神の旨に従わざるを得ない生涯であったとも言えます。神の命令に従ったおかげで、彼はエジプトの王との戦いに心を痛めることもなく、連れ出したヘブル人たちの不満に悩むこともありませんでした。

自分の幸せに生きたのなら

彼が、召命を断り、自分の人生を生きたとしたならば、愛するチッポラとミデヤンの地にあって、一介の羊飼いとしての人生であったかと思いますが、それなりに小さな幸せを感じながら、老境を過ごすことができたのではないかと思います。

ブロニー・ウェア(Bronnie Ware)氏という、オーストラリア生まれの数多くの患者を看取った緩和ケアの介護士が書いた「死ぬ瞬間の5つの後悔」という本には、5つの後悔について書かれています。その後悔とは、

  1. 自分に正直な人生を生きればよかった

  2. 働きすぎなければよかった

  3. 思い切って自分の気持ちを伝えればよかった

  4. 友人と連絡を取り続ければよかった

  5. 幸せをあきらめなければよかった

ということだそうです。死を前にして人はいろいろな悩みを持つものと思われますが、モーセも私たちと同じく、こうした思いを抱いたかも知れません。モーセは、自分の幸せを捨てて、神のことばを伝えること、民を約束の地に連れて行くことを伝えることをその使命として人生を捧げてきました。
その労苦の報いも多少なりとも考えたこともあったかもしれません。
普通の人間であれば、そこまで苦労した報いとして、ねぎらいもほしいだろうし、その望みをかなえてあげたいと思うところですが、神はそうはされなかったのです。

モーセはこの時、齢120歳でした。通常ですと、そこまでの高齢ですと、認知症を患う、介護が必要となってもおかしくない年齢です。神がいくら、モーセに語ったとしても認知に問題が生じる年齢だろうと思います。ところが、申命記では、120歳であっても認知機能や視力には問題はなかったといいます(申34:7)。こうしたことを見ていきますと、神がモーセに告げた言葉というのは、彼自身にとって残酷であったのではないかと思わずにはいられません。

ピスガの峰に登る

申命記
34:1 モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。主は、彼に次の全地方を見せられた。ギルアデをダンまで、
34:2 ナフタリの全土、エフライムとマナセの地、ユダの全土を西の海まで、
34:3 ネゲブと低地、すなわち、なつめやしの町エリコの谷をツォアルまで。

いのちのことば社 新改訳聖書第3版
                 Mount Nebo, view to north east. Photo by Berthold Werner

ネボ山の北方には、ギルガデからダンに至るまで、北西側にはナフタリの全土とマナセの地、西には西の海まで続くユダの全土、そして南はネゲブと低地、すなわちなつめやしの町エリコの谷をツォアルまで眺めることができるようにされました。つまり、イスラエル全土を見渡せる場所に神はモーセをいざなったのです。

この地は、かつて神がアブラハムとイサクとヤコブに、「あなたの子孫に与える」と約束された地です。モーセはそれを見ることができました。けれども、その地に入って行くことはできませんでした。こう考えると、非常に切なく、神様は非情だと言いたくなるものですが、

申31:2 言った。私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。主は私に、「あなたは、このヨルダンを渡ることができない」と言われた。

いのちのことば社 新改訳聖書第3版

実は、モーセには神からカナンの地に入れないと宣告される前から、身体機能の著しい低下の自己認識があったようです。しかも、この聖句以降は、モーセの辞世の歌として語られた御言葉です。彼自身、自分の死が近いことを悟っていたものと思われるのです。

ヨルダン川を渡り、カナンの地に侵入する時期や、次の指導者について考えていたのでしょう。熟慮を重ねていた時に、神は、モーセの死の時期を伝えたのです。何も考えていない時に、神はモーセにその死を伝えたのではありません。

死ぬ前に考えていたこと

モーセ自身の死期の自覚、死んだ後のビジョンと目的、そうしたものをしっかりと考えていました。神が、モーセに対して死の宣告をすることで、行動に移すという明確な手順を経て、ヘブル人の民全体に、カナンの地に入る目的とその意味を伝えたということでした。

申命記
30:16 私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主は、あなたが、入って行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。

いのちのことば社 新改訳聖書第3版

モーセは、ピスガの峰に誘われるまで、ヘブルの民に何を伝えるべきことかということに注意深く取り組んでいました。
その中心は、『あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守る』ことでした。
『主の命令とおきてと定めを守る』こと、つまり、律法を守るということが前提ではないことです。
あくまでも、モーセが最も伝えたかったこと。それは、『主を愛する』ということでした。

モーセの人生は、さきほど不遇だったと語りましたが、それは、一面的な見方です。なぜ、彼が、過酷な召命に従ったのでしょうか。
それは、『主を愛していた』から従えたということです。
何かをいただくために、あるいは、何かをしてもらったから愛したのではありません。

受けたから愛するのではないこと

モーセの神への愛は、受けてきたお返しとしての愛ではありません。
これを『返報性の原理』といいますが、人から好意を向けられ親切にしてもらった時に、人間が自然に「お返しをしたい」と思う心理のことをいいます。ロバート・B・チャルディーニの名著「影響力の武器」という書物のなかで紹介された心理ですが、モーセは、こうしたギブアンドテイクとして神を見つめていなかったのです。

返報性の原理は、人間関係や仕事の中でよく見られる人間心理ですが、いつでも効果的に働くわけではありません。いや、むしろ逆のこともありえます。人間関係の状況や、相手の性質によっては、逆効果ということもありますから、「与えたら必ず返ってくるはず」という期待は禁物です。「こんなにも与えてあげたのに」という気持ちが生まれてしまうと自分が苦しい思いをします。そうなると人間関係が壊れてしまいます。

同様に、神との関係においても、神からのお返しを期待することが信仰であると勘違いしてはなりません。
むしろ、神はあらゆる手段で恵みをわたしたちに与えてくださっているお方だということです。無償の愛をわたしたちに与えてくれているお方でありますが、私たち自身が恵みとして理解していないことが人間の罪の性質の一つです。

当たり前の生活を私たちは過ごしていますが、その当たり前のことがいかに多くの恵みで成り立っているかを考えていただきたいと思います。
電気にしても、水道にしても、社会生活のインフラと呼ばれるものすべてを考えた時、あるいは、毎食食べられるということもこのこと自体が奇跡です。人間は、神様から頂いたものを加工し、自分たちのものにしているだけにすぎません。社会の営み、生活の営み、その一つ一つすべてが、わたしたちに向けられた神の愛であることを覚えてください。

モーセを見ますと、その苦悩の半生と思える人生をどう過ごしていたのかといえば、不平不満や、当たり前に生きられることを神に要求するばかりであったでしょうか。それは否です。

民数記 12:3 さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。

いのちのことば社 新改訳聖書第3版

モーセは、民数記の中で、『地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。』と聖書は記しています。
謙遜とは、苦しみや貧しさの中で神のみに頼らざるを得ないことを知り、そのように生きている人の態度のことを意味しますが、つまり、『神を愛する』ということです。
モーセは、耐えざる困窮と悩みと、リーダーとしての苦しみを一身に受けながら、常に神のみに頼らざるを得ないことを実践していた人でした。モーセ自身もイエス・キリストの予表になりますが、十字架上でのイエスの苦しみは、モーセの荒野の40年間を象徴するものと言えましょう。

イエス・キリストの生涯もそうですが、
モーセの姿勢自体、荒野という希望や将来を見通すことのできない絶望が繰り広げられる現実の中での生きる力となってのが、『神を愛する』ということでした。
彼の生涯は人々に称賛されるためではなく、ただ神の栄光が現されるためのものであったことがわかります。この地上のものに執着し、イエス・キリストの永遠の御国とはあまりにも大きな隔たりのある人にとっては、この世は悲惨なものでしかありません。

終焉の地ピスガ

申命記
34:1 モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。主は、彼に次の全地方を見せられた。ギルアデをダンまで、
34:2 ナフタリの全土、エフライムとマナセの地、ユダの全土を西の海まで、
34:3 ネゲブと低地、すなわち、なつめやしの町エリコの谷をツォアルまで。
34:4 そして主は彼に仰せられた。「わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう』と言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡って行くことはできない。」
34:5 こうして、主の命令によって、主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。

いのちのことば社 【新改訳改訂第3版】

『神を愛する』ことを全身全霊で取り組んだモーセは、ほどなくして、ピスガの頂に登ります。
彼は、120歳の高齢です。聖書では、気力や認知に関してはしっかりしていたと記していますが、足腰がしっかりしていたとは書いてはありません。石や岩が転がっている山道を踏みしめて登っていくためには、ヨシュアやカレブらの力が必要だったことでしょう。あるいは、家畜の背に乗せられて頂きに向かったのかはわかりません。

頂に着いたモーセは『主は、彼に次の全地方を見せられた。』とあります。神に促されるまま、モーセはイスラエル全土を見渡します。

彼の胸中を察すると、目頭が熱くなります。
彼は、神と共に歩んだ120年の人生を振り返ってきたことでしょう。
辛いことや苦労をしたこと以上に、神がいざなってくれた峰において最期まで神とともに歩めた幸せと、向かうべきゴールをこの目で確かめることができた神からの贈り物を目にして、言いしれない喜びに感極まっていたのはないでしょうか。
生涯、彼の目が霞まず、認知がはっきりしていたということは、彼にとって最大の神からの贈り物ではなかったと思います。
ピスガの峰に到達して、彼は、カナンの地に入ること以上に、神とともに人生を歩めたこと。そのことが彼にとっての至高の幸福であったことはまちがいありません。

今、こうして、ピスガの峰からカナンの地を見下ろしてモーセは、一つのことを思っていたことでしょう。それは、カナンの地を俯瞰した時に、これから迎える天の御国から地上を見下ろすことをも想像していたことでしょう。
彼は、ピスガの峰に登ったということは、地上の事物から離れ、天国への昇華をも体験した場でありました。

まさに、ピスガは、私たちの本当の住まいである天国の象徴でもあります。私たちは、必ず向かう安住の地、そこが私たちのカナンの地であり、ピスガの峰は、天の御国の予表をも示した場であります。

私たちは、決して、モーセのようなダイナミックな人生を送る存在ではありません。しかし、それぞれ登るべきピスガの峰があります。
神のしもべとして、モーセのように一心に、神に与えられた使命のために最後まで走り続けようではありませんか。

日々の暮らしのなかで


  1. 神を愛しましょう
    モーセの人生は、神を愛することが重要であることを教えてくれます。彼は困難な状況に直面しながらも、神への愛を失うことはありませんでした。私たちも同様に、日々の生活の中で神を愛し、神の道に歩むことを心がけるべきです。神を愛することは、私たちの信仰生活の中心であり、全ての行動と決定の基礎となります。

  2. 神の命令を守りましょう
    モーセは神の命令を忠実に守りました。彼は神の命令を守ることによって、神の約束の地を目の当たりにすることができました。私たちも神の命令を守ることによって、神の恵みと祝福を受け取ることができます。神の命令を守ることは、私たちが神を尊敬し、神の意志を尊重する証となります。

  3. 神の計画を信頼しましょう
    モーセは神の計画を信頼し、神が彼に与えた使命を果たすために全力を尽くしました。彼は自分の力ではなく、神の力を信頼しました。私たちも同様に、神の計画を信頼し、神が私たちに与えた使命を果たすことが求められます。私たちの力ではなく、神の力を信頼することで、私たちは神の恵みと祝福を受け取ることができます。神の計画を信頼することは、私たちが神の主権を認め、神の意志を尊重する証です。神の計画は完全であり、私たちの最善の結果を考慮に入れています。だからこそ、私たちは神の計画を信頼し、神の意志に従うことが求められます。神の計画を信頼することで、私たちは神の恵みと祝福を受け取ることができます。