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聖書の山シリーズ2 神の苦悩 モリヤの山

タイトル画像:Map of Jerusalem in 1925, showing the location of Mount Moriah according to Jewish sources 出典:commons.wikimedia.org

創世記 22章2節
神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」。

2022年7月31日 礼拝

聖書箇所 創22章1節-19節


はじめに

前回に引き続き、聖書の山シリーズの第二回目です。前回、シナイ山を取り上げると書きましたが、構成を見直しまして、『モリヤの山』を紹介したいと思います。


モリヤの山

聖書に登場する山についてですが、そもそもパレスチナは山岳地帯にあります。エルサレムなどイスラエルの町は、山脈の稜線上の頂上に位置し、山々の頂上に町があるという独特な地理にあります。ちなみにエルサレムの標高は754m。大地溝帯にある死海は、標高-430 mですから、死海からエルサレムを見たときにエルサレムは1,184mの山の頂に相当するわけです。
そう考えると、ずいぶん高所にエルサレムは位置すると思われますが、気候を考慮しますと、山脈の稜線上に町があるということは、起伏が激しいというデメリットもあるでしょうが、パレスチナは、砂漠気候にあるため、標高が高いことから、暑さから回避できるということもありますし、地中海からの湿った空気のお陰でステップ(草原)気候に属するということもあって、古代より山岳地域に人が定住しやすかったといえるでしょう。

さて話を本題に戻しますが、そのモリヤの山ですが、その意味は「ヤハウェが備える地」あるいは「ヤハウェ顕現の地」という意味になります。
最初にこの地が登場するのは、アブラハムがイサクをささげるよう命じられた(創22:2)ことにあります。
「モリヤの地」はベエル・シェバから歩いて3日ほどの道のりにあります。(創22:4)

ベエル・シェバ Beersheba on the map of Israel:commons.wikimedia.org

モリヤの名の由来ですが、神(ヤハウェ)がいけにえの羊を「備えた」こと(創22:8、14)にあると言われています。
「備えがある」という言葉はヘブル語でイェーラーエ(イルエ)という言葉ですが、このイェーラーエの元の意味は、「現れる」という意味を持つことから、アブラハムに「現れた」ことも含まれるようです。
ところで、その所在地については、説が分れているようです。

エルサレムにモリヤがあったという説

ユダヤ人の伝承では、ソロモン王が神殿を建てた「エルサレムのモリヤ山上」(Ⅱ歴3:1)だと言う説があります。

Ⅱ歴代 3:1 こうして、ソロモンは、主がその父ダビデにご自身を現された所、すなわちエルサレムのモリヤ山上で主の家の建設に取りかかった。彼はそのため、エブス人オルナンの打ち場にある、ダビデの指定した所に、場所を定めた。」

出典:新改訳改訂第3版 いのちのことば社

と記されています。
これはエルサレムの東の丘、シオンの山に相当します。
そこはかつて「エブス人オルナンの打ち場」(Ⅰ歴21:15,Ⅱ歴3:1.Ⅱサム24:18では「アラウナの打ち場」)でした。

ところで、「アラウナの打ち場」とは、どういう場所であったのかといいますと、以下のサイトに詳しくありましたので、ご紹介しますと

し弱さと欠点を持っていたダビデ王は、人生で何度も打ち場を経験しました。サムエル記第二24章にその体験が記されています。ダビデ王は軍団の長ヨアブの賢明なアドバイスを無視し、
イスラエルとユダの人口調査を行いました。その結果、民の間で疫病が起こり、7万人が死んだのです(Ⅱサム24:15)。その裁きのさなか、主はあわれみのゆえに怒りを沈められました。エルサレムの住民を滅ぼすために遣わされた御使いは、不思議なことにアラウナの打ち場でとどまります(Ⅱサム24:16)。ここでダビデは主の前にへりくだり、祭壇を築き、いけにえを捧げました(Ⅱサム24:25)。

ティーチングレター「打ち場(脱穀場)の恵み」打ち場に建てられる
ネイサン・ウィリアムズ B.F.P.Japan


ダビデは、「アラウナの打ち場」に、「イスラエルの全焼のいけにえの祭壇」(Ⅰ歴22:1)を築くことを決定し、その後、ダビデを継いだソロモンがここに神殿を建設しました。その際オルナンの打ち場を囲むように建てたと言われています。

伝承ではアブラハムがイサクをささげようとしたのがオルナンの打ち場だと言われおり、現在イスラム教徒が7世紀に建てた「岩のドーム」(オマルのモスク)の中にある聖岩が、イサクをささげようとした場所であると言われています。

岩のドーム 著者:Godot13 出典:commons.wikimedia.org
聖岩:アメリカ議会図書館Matson (G. Eric and Edith) Photograph
出典:commons.wikimedia.org


イスラム教徒はこの岩を「アブラハムの場所」(マカーム・エル・カリール)と呼び、マホメット昇天の場所としています。
ヨセフォスもアブラハムがイサクをささげようとした聖岩に、ダビデが神殿を建てることにしたと言及しています。(『ユダヤ古代誌』1:13:1,7:13:4)
偽典のヨベル書には、「アブラハムはその場所を『主、見たまえり』と名づけた。これはシオン山のことである」と記されています(ヨベル書18:13)。
ヒエロニムスもこの伝承を受け入れています。

ゲリジム山がモリヤとする説

サマリヤ五書の創22:2では、モリヤを「モレ」としています。
創12:6「シェケムの場、モレの樫の木」と関連させています。その結果、シェケム南側のゲリジム山を「モリヤの地」として「聖なる山」と呼んだそうです。

ゲリジム山 File:Nablus panorama.jpg 出典:commons.wikimedia.org


今日、ゲリジム山中腹にはアブラハム時代の中庭式聖所の遺跡や、ギバット・ハオラム(世界の丘)と命名されている一角が存在しますが、これはイサクがささげられた場所だとするサマリヤ人の伝承と関係があると言われています。
しかしサマリヤ人が支持するモリヤ山がゲリジム山とする説は、聖書を改ざんしたものとされ、今日否定されているようです。
「モリヤの地」をめぐっては、モリヤの地をエルサレムとするユダヤ人と、ゲリジム山とするサマリヤ人との間には正統性をめぐる対立と反感がありました。ヨハ4:5‐26のスカルの井戸でのイエスとサマリヤの女との出会いのなかで触れられていますように、モリヤとは、ユダヤ人としてのアイデンティティの拠り所でもあることがわかります。

翻訳によって変わる場所

ウルガタ訳は「モリヤの地」を「幻の地」と訳します。
70人訳は「高い地」と訳しています。
シリヤ語訳は「エモリ人の地」と訳します。
エモリ人とは、カナン人の総称ですから、シリヤ語訳では、モリヤの地とは、パレスチナ全体と解釈されます。

現在、有力な資料がないため、「モリヤの地」が厳密にどこにあったのかはわからないのですが、聖書の言葉や伝承を総合すると、おそらく現在のエルサレム市内およびその周辺の山地と考えることが妥当でしょう。
モリヤの地がエルサレムであったと仮定しても、アブラハムの時代、人の住まない僻地であったと思われます。


アブラハムがイサクをささげるよう命じられた地

モリヤの地がどこであれ、創世記22章を読みますと、神がアブラハムに現れ、イサクをモリヤの山の上で捧げることを命じられることが記されています。

創世記 22章2節
神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」。

主なる神は、アブラハムに現れ、一つの試練を与えられます。その試練とは、自分の子どもであるイサクをいけにえとして捧げよというものでした。アブラハムにとって、神とは敬うべき対象であり、同時に愛する対象でありました。当然、神は自分に悪いことはなさらないはずだという理解を持っていたことでしょう。信頼する対象として神を捉えていたと思います。
ところが、こともあろことか、アブラハムに対して、神は、その子イサクのいのちを差し出せという命令を与えるのです。

アブラハムにとっては寝耳に水。ずっと待ち続けた末にようやく与えられた妻サラとの間の一人息子でありました。それは、かけがえのない一人息子でした。両親の愛情を存分に受けてすくすくと成長し、この命令を受ける頃には若者に達していました。

しかも、神はアブラハムに対して、イサクの子孫が増え広がることを何度も約束していたわけです。ところが、あろうことに神は、その子を屠り、焼き尽くし、いけにえとしてわたしにささげなさい」と命じたのです。

私たちであれば、どう考えるでしょうか。神が命じたからと言って、従うという人は、少ないのではないでしょうか。本音では、神は愛であるに、こうした命令はナンセンスと否定する人もいると思います。

創22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。

こうした思いをよそに、アブラハムは翌日すぐに命令に従うのです。旅の準備を整えて、息子を連れて歩いて3日の旅を続けます。イサクには、薪を背負わせ、モリヤの山を目指します。平坦な地であっても3日の道中は大変なことだったのでしょう。

創22:6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。

登山道を歩いた経験のある人ならわかると思いますが、当時の道は、登山道のような道です。
岩が転がり、窪んだところも合ったことでしょう。うっかりすれば足を取られる。そうした道を注意深く歩みを進めていく。
3日の行程は、体力的にも、精神的にも苦痛の強いられる旅であったかと思うのです。しかも、アブラハムにとっては、自分の一人息子をいけにえに差し出すという心理的にも苦痛の旅であったことでしょう。

創22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」

「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」とイサクに彼は答えます。
「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」とアブラハムはイサクに言います。

神に指示された場所につくと、彼は息子を縛ります。薪の上に載せました。ここで、イサクは父親の言うことに従い、暴れもせずにいけにえとして自分の身を捧げていきます。そこで、アブラハムは、合口を手に取り、イサクの首元に刃を当てようとしたその時、

創22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」

という言葉を受けます。こうして間一髪のところでイサクのいのちが守られました。

創22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。

こうして、アブラハムとイサクは、茂みの中に見つけた羊を、代わりのいけにえとして献げますと、神の御使いの声を聞きます。

創22:16 仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、
22:17 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。

結果的に、イサクはいけにえにならなかったものの、この事件は非常に衝撃的な内容です。なぜ神はこんな恐ろしいことを命じたのでしょうか。

私たちの常識から言って、不条理に思える神の命令に従ってしまうアブラハムは狂信家といってもおかしくはありません。信仰の父と呼ばれ、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の中で最も重要な偉人として扱われているアブラハムですが、現代の常識から考えて、大切なひとり息子をいけにえにする父親がどこにいるでしょう。

実はこの出来事があったモリヤの山は、数千年後イエスが十字架刑に処せられた場所と同じだと言われています。

息子をいけにえにする父アブラハムの姿は、ひとり子イエス・キリストを、罪人たちの身代わりとして死に至らせる父なる神と重なります。気が狂っているかのような愛を私たちに向けているです。
なぜ、たった一人の自分の子を、罪人である私たちのために死なせるのでしょうか。そこまで犠牲を払う価値が、罪人たち(私たち)にあるのでしょうか。

答えは、イエス・キリストを犠牲にするだけの価値が、あなたにあるということです。

イザヤ書にある有名な御言葉では、次のように語られておりますが、

イザヤ 43:4
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

出典:新改訳改訂第3版 いのちのことば社

それだけ、私たちを愛しており、クリスチャンを神の子として迎えるという約束は、まさにイエス・キリストを犠牲にするだけの価値ある存在として私たちを扱っているということです。

神はそのひとり子を、この世に送られました。それは、私たちが救われるためであると、キリスト教は説明します。救いを言い換えれば、本来あるべき姿に戻すことが救いの意味です。私たちは、単なる被造物ではありません。もともとは、神の子とされる特権を有している存在です。ところが、人間が罪を犯し、罪が入ってきたことによって、神の子としての権利を失った状態にあるのです。

このモリヤの山での出来事は、アブラハムを通して、神が私たちを愛すること、救うためにどれだけの苦悩をしたのかということを知る手がかりとなります。また同時に、イサクを通して、イエス・キリストが神の御心と愛を実践するために、どれだけ苦しみを覚え、私たちに対する痛みを負ってくれたかということを知る機会となります。
まさに、モリヤの山は、神の御心、イエスの愛の実践の場であり、そこに思いを馳せるとき、神の壮大な救いの舞台が私たちに用意されていたということを知るのです。

今や、モリヤの山を覚える時、御子のいのちを犠牲にするほどの神の愛を、私たちがあらためて受け取るべき時だということを覚えていきましょう。

適 用


私への神の愛の理解しましょう
モリヤの山での出来事は、神が私たちをどれだけ愛しているかを理解するための重要なエピソードです。アブラハムが自分の一人息子を犠牲にすることを命じられたとき、彼はその命令に従いました。これは、神が私たちを救うためにどれだけの苦しみを受け入れる用意ができていることを示しています。私たちは、このエピソードを通じて、神の私たちへの無条件の愛と献身を理解し、それを自分の生活に活かすことができますか?

信仰には試練があります
 アブラハムの試練は、私たち自身の信仰が試されるときにどのように対処すべきかを教えてくれます。アブラハムは、神が彼に与えた約束を信じ、神の命令に従いました。私たちも、困難な状況や試練の中で、神を信じ、神の道を歩むことを選べますか?

神の救いをおぼえてください
モリヤの山での出来事は、神が私たちを救うためにどれだけの犠牲を払ったかを記しています。神は、私たちが罪から解放され、本来あるべき神のもとに来られることを望んでいます。私たちは、この救いのメッセージを心に留め、神の愛と恵みに感謝することができます。また、イエス・キリストの福音を信じた私たちはこの救いのメッセージを他人と共有し、神の愛を広める役割を果たすことができます。