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ペテロ第一の手紙 2章19節      不当な苦しみの中での恵み

人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。Ⅰペテ2:19


Text 本文

τοῦτο γὰρ χάρις εἰ διὰ συνείδησιν θεοῦ ὑποφέρει τις λύπας πάσχων ἀδίκως.トゥート ガル カリス エイ ディア スネイデーシン セウー ヒュポフェレイ ティス ルーパス パスコーン アディコース

Translation 聖書対訳 

新改訳改訂第3版 Ⅰペテ2:19
人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。

【NKJV】1Pe2:19
For this is commendable, if because of conscience toward God one endures grief, suffering wrongfully.
神に対する良心のために人が悲しみに耐え、不当に苦しんでいるなら、これは称賛に値します。

Lexicon レキシコン

χάρις、n \ {khar'-ece}
Case N Number S Gender F
1)恵み1a)喜び、喜び、喜び、甘さ、魅力、愛らしさを与えるもの:スピーチの恵み2)善意、愛ある親切、好意2a)神が魂に聖なる影響を与える慈悲深い親切の 彼らをキリストに向け、キリスト教の信仰、知識、愛情を保ち、強め、高め、そしてキリスト教の美徳の行使に彼らを燃やします3)恵みによるもの3a)神の恵みの力によって支配される人の霊的状態 3b)恵みのしるしまたは証明、恩恵3b1)恵みの贈り物3b2)恩恵、報奨金4)感謝、(恩恵、サービス、恩恵に対して)、報酬、報酬

διά、p \ {dee-ah '}
1)から 1a)場所の 1a1)と 1a2)で 1b)時間の
1b1)全体 1b2)中
1c)手段の 1c1)によって 1c2)によって
2)から 2a)何かが行われるまたは行われない理由または理由
2a1)理由による 2a2)の原因で 2a3)この理由のため
2a4)したがって 2a5)このような訳で

συνείδησις、n \ {soon-i'-day-sis}
Case A Number S Gender F
1)何かの意識2)道徳的に良いものと悪いものを区別する魂、前者を実行し、後者を避け、一方を賞賛し、他方を非難する2a)良心

ὑποφέρω,v \{hoop-of-er'-o}
Person 3 Tense P Voice A Mood I Number S
1)下にいることで耐える、耐える(肩に乗せるもの)2)辛抱強く耐える、耐える
事実を表す直説法(indicative mood)

τίς、ri \ {tis}
1)ある、あるもの
2)いくつか、しばらくの間、しばらく
1)誰が、誰が、何を

λύπη、n \ {loo'-pay}
Case A Number P Gender F
1)悲しみ、痛み、悲しみ、苛立ち、苦痛1a)喪に服している人の

πάσχω、v \ {pas'-kho}
Tense P Voice A Mood P Case N Number S Gender M
1)影響を受けている、または影響を受けている、感じている、賢明な経験をしている、1a)良い意味で、裕福である、良い場合1b)悪い意味で、悲しいことに苦しんでいる、悪い状態にある 病人の窮状1b1)

ἀδίκως、d \ {ad-ee'-koce}
1)正義に違反したり違反したりした人の説明1a)不当な1b)不義で罪深い1c)他人と不正に取引する人の説明、欺瞞的1)不当に、不当に、過失なく

しもべについて オイケテース

 前回は、キリスト者のしもべについて見てきました。しもべと言っても、キリスト者はキリストのしもべであるという、信仰上でのしもべではなく、ペテロは、奴隷制のなかで主人に仕えるしもべについて語りかけたのです。奴隷と言いましたが、ここに記されている奴隷は、オイケテースと呼ばれ、主人の家庭の中で給仕や下働きをする奴隷たちでした。奴隷とは言いましても、力仕事だけとは限りません。中には、教師、医師といった人物もその中に含まれていたということは前回記したとおりです。

人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。

との聖句を紹介しますが、前回のⅠペテ2:18を受けての言葉です。

新改訳改訂第3版 Ⅰペテ2:18
 しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。

不当な苦しみ パスコーン アディコース

 そこに記されているのは、横暴な主人です。ギリシャ語では、横暴な主人をスコリオスと記していますが、そのスコリオスの意味とは、心の曲がったとか、ひねくれた、邪悪な、不公平、無愛想という意味があり、単に横暴ではなく、その横暴さの中に秘めたひねくれた心を持っていたという人物でした。もう少し、スコリオスについて詳しく言えば、比喩的にですが、聖霊の油が不足しているために道徳的にねじれ、したがって神に受け入れられないという意味を持つということでした。

 これは、キリスト者のしもべからすれば、到底受け入れられない状況ではないでしょうか。仕える主人は、神のみこころから離れた不道徳な生活を送っており、神から是認されるような生活を送るどころか、神に背くような日常を過ごしているということになります。この当時の金持ちや皇帝の生活を見ていきますと、乱交や小児性愛、同性愛といった性の乱れが普通でした。性の乱れとは言いましても、そうした性に対するローマ人の態度は、悪とも罪とも思わない、それが日常そのものであったのです。

ローマ人の精神は現代よりもはるかに自由だったし、当時はセックスを罪悪と結びつける、モラル上または宗教的な抑圧がいっさい存在していなかったからだ。だからといって彼らが淫乱だったわけではない。饗宴は必ずしもセックスが前提だったのではなく、現代のディナーパーティーと同様、友人と一緒の時間を過ごし、社会的に力のある人物と出会い、会話を交わす場だったのだ。 『古代ローマ人の愛と性 官能の帝都を生きる民衆たち』 アルベルト・アンジェラ著 河出書房新社 P347 11章 権力者の性 

 当然のことながら、キリスト教の倫理はもとより現代の感覚からすれば、異常であると思われるこのような状況において、クリスチャンであったオイケテースたちは、非常に困難な生活を強いられたことが想像できます。男女問わず性の対象としてオイケテースが使役されることもあったわけです。性奴隷というおぞましい言葉がありますが、まさにそうした奴隷としても働かされた事実があったことがアルベルト・アンジェラの本にはありました。

 まさに、こうした虐待が、主人とオイケテースの間にはあったようです。ペテロは、ὑποφέρει(ヒューポフェレイ)下にいることで耐えるとか、辛抱強く耐えるという意味のヒューポフェローの直接法が用いられています。ここで、ペテロは、事実を表す直説法(indicative mood)を使っていますから、その当時、こうした性の奴隷や虐待下にあるクリスチャンがいたという衝撃的な事実をペテロは伝えているのではないかと考えます。

深刻な苦悩の淵 ルーペイ

 いずれにしましてもスコリオスと記された横暴な主人は、横暴と訳されてはいますが、力による暴力だけではなく、精神的に、性的に人の良心を損なうこと、つまり、人としての尊厳を奪うという意味での横暴と考えたほうがふさわしいでしょう。生きてはいたとしても、精神的には、常に殺され続けていたわけです。主人から継続的に精神的に殺され続けることがオイケテースの立場でありました。

 スコリオス(横暴な主人)の奴隷であることは、生きていること自体が地獄の沙汰であったかも知れません。徹底的に利用され、人権はもとより、人間としての価値が損なわれ、人間としての尊厳が奪われることは地獄と変わりません。逃げることもできず、このローマでは当たり前のことだからとして、欲のために容易に人間が利用される。こうした極限状態の中で生きことは、相当な苦痛をもたらしたことでしょう。その状況をペテロは、ルーペイ(λύπη)を用いていますが、このルーペイは喪に服している人の精神的に深い悲しみを意味しているそうですが、私たちからすれば、自分から死を選んでもおかしくないような深刻な悩みのなかに追い込まれてもおかしくない中に生きていたということを思い起こされます。

神が共にあれば シュネイデーシン セウー

 深刻な苦悩のうちを歩まなければならなかった、クリスチャンのオイケテースたちは、どこに自分たちの救済を求めればよかったのでしょうか。監獄のなかで虐待され続けていくような状態です。クリスチャンになったからといって、解放されるわけではありません。いつ解放されるかということも未定である中で、希望は絶たれたままでした。常に精神的な死を強いられた彼らを生かす力となったのは、シュネイデーシン セウー(συνείδησιν θεοῦ)でした。この言葉は「神の良心」と直訳しますが、聖書では、19節で『神の前における良心』が損なわれる状況であっても、不当な取り扱いを受けて苦しみを受けて苦しむなら『喜ばれること』としています。『喜ばれること』と訳されたカリス(χάρις)は、恵みであるとか、感謝、喜びという意味をもちます。どこで、不当な取り扱いを受けて喜べるのかと思う方もいるかと思います。率直には、私も喜べないのが本音です。しかし、ペテロは、神の良心の中に生きる者は、喜びを得ることを示唆しています。

 では、なぜ、喜びや恵みを受けるのでしょうか。フルフォードやビッグによれば、シュネイデーシン セウー(συνείδησιν θεοῦ)「神の良心」の中に神の臨在を仰ぐ意味があるとします。神を認め、そこに神の御心を自覚できるならば、忍耐ができるというのです。確かに、苦しみに意味を見いだせないならば、どれだけ苦痛を強いられるのではないでしょうか。しかし、私たちが不当な取り扱いに神を自覚しているならば、意味がわかります。意味がわかれば、目的が生じます。目的がわかれば、私たちはゴールを発見するのです。奴隷からの解放の手がかりがつかめるのです。そうして、そこに至る道筋を見出すこと、それが神の臨在の実感と神の導きを知ることになります。目的を知り、ゴールを発見し、神の導きが具体的にわかれば、私たちはすでに奴隷ではありません。自由を得ているのです。立場や持てる富が奴隷か自由人かを決するものではありません。

ヘーゲルはこう言います。

奴隷は労働し、主人は享受する。だが奴隷は労働を通して自然を知り、自己を形成することができるが、主人は消費に没頭するだけで労働による自己形成ができない。主人の生活は奴隷に依存するばかりか、奴隷が自由と自立を獲得していくのに対して、主人はそれを喪失していくだけである。そうなると、みずからの意識においては自立していると思っている主人は客観的には自立を喪失しているのであり、逆に奴隷は自立していないという意識のもとで、真理においては自立的なのである。この真理が明らかになるとき、主人と奴隷の立場は入替る。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
主人と奴隷の弁証法 Dialektik von Herrn und Knecht

恵みとは カリス

 恵みとは一体なんなのか。それは、奴隷から解放されるという喜びです。その喜びは、地位や名誉が回復されるだけでは、得られるものではないことはおわかりかと思います。本当の意味での奴隷解放とは、精神的な自立であり、これこそが恵みの最終目標であって、単に名誉や地位や人権の回復にとどまらないのです。

 人間が自由で自立的な存在であるためには、他者からの承認が必要です。それも、人間同士の承認ではありません。絶対的な権威者である神からの承認が必要です。神の承認を得て初めて人間は、奴隷から解放されるのです。そこに必要なのが、信仰です。神を信じること。そうして人間は、神から承認を受けることができます。神からの承認を得て、人間は初めて自由で自立的な存在に生まれ変わります。これが、今回取り上げた神の良心と直訳されるシュネイデーシン セウー(συνείδησιν θεοῦ)です。私たちを強めるのは、地位や立場や名誉だけではありません。たとえ自由勝手気ままに、心の赴くまま、楽しめることを自由を行うだけでは不十分です。本当に人間が人間らしく真の自由を取り戻し、自律的な存在になるためには、自分が神の良心に従えるかどうかにかかっています。

もしあなたが、精神的に自立し、自由な存在でありたいと心から願うならば、また、恵みを受けたいと願うならば、神のみ心、つまり、内在の聖霊の声に聞き従っているかどうかを見つめてはいかがでしょうか。

Ulrike MaiによるPixabayからの画像