君がそれを言う資格はない―「ゴールデンカムイ」とマイノリティと(時々)アライについて
(タイトルバナー写真:どうしん電子版記事より)
こんばんは、烏丸百九です。
結局、月末ギリギリの更新になってしまいました……。
最近、有名コミックの「ゴールデンカムイ」について、ちょっとした炎上騒ぎがありました。概要を知らない方は、以下のリンクを見れば大体の話はわかるかと思います。(ネトウヨの作ったまとめなので、閲覧にはご注意下さい)
私は「ゴールデンカムイ」を未読ですし、作品の内容について云々するつもりはありません。また「炎上」事案そのものが既に沈静していることもあるので、その内容について書くことも特にないです。
今回はより一般論的な話として、「マイノリティ当事者とアライ(=支援者)」の話をしたいと思います。
超ゴーマンな「アイヌアライ」の皆さん
様々な意見を読んで思ったのは、「ゴールデンカムイ」作者の野田サトル先生を含む、自称「アイヌアライ」の人たちの傲慢さです。
野田先生は、作品の完結記念に以下のインタビューに答えており、その内容が「まっとうな反差別だ」と各所で絶賛されているようなのですが……。
ここで注意すべきなのは、上記の野田先生のコメントが「本人の意見(というか願望)」と「アイヌ当事者の意見」をゴチャゴチャにして述べていることです。
「露悪的に差別などネガティブな側面を~危険性があるとも思いました」
「ただ言えるのは、アイヌの方たちは和人とフェアな関係を望んでいる方が多い」
「その思いに寄り添って、共に生きていけるようにという願い」
↑これらは全部「野田先生のご意見」で、
「(文中にある)藤谷るみ子さんの話」
「この作品が始まって、周りから『実は自分もアイヌの血を引いている』と打ち明けてくれた方が3人もいるんです」
↑これらが「アイヌ当事者の意見」です。
「イデオロギー」を無視して公平に見れば、後者から前者を導き出すのはハッキリ言って無理があります。「アイヌ当事者の意見」がn=2でしかなく、公平な方法でアンケート調査を行ったわけでも、(「総意」を取る気はそもそも無いにせよ)「当事者間で一般的な見解」であるかさえ、一般人には判断しようが無いからです。
そもそもの話なんですが、この手のマイノリティ差別の問題について、「アライ」が意見を言う資格は基本的に無いと私は考えています。
「アライ」はどこまでもアライでしかなく、「当事者」と「非当事者」が(こと混血の進むアイヌ民族においては)すっぱりと分けることが出来ないものだとしても、母語話者が消滅寸前の超少数派民族にアイデンティファイして人生を歩んでいる(当然に超少数派の)人々と、そうでない和人が対等(フェア)に「アイヌ問題」について意見出来るわけがないからです。
ですので、「アライ」の活動は基本的に、当事者の方々の話を広げる「拡声器」として振る舞うことであって、自分の意見を述べることではありません。
その意味において、「ゴールデンカムイ」を批判した松崎悠希氏の意見もまた、「当事者」の見解を無視して自分の意見を述べたものに過ぎないと思います。彼は優秀な「マイノリティ・アライ」だと思いますが、アライはアライなのであって、アイヌ当事者でないことは本人が一番よく知っているはずでしょう。
ご立派な「反差別」のお題目を掲げるのは結構なのですが、↑こういう「真に重く受け止めるべき当事者の抗議」をガン無視して、アライな人々が偉そうに「これは差別だ」「いや差別ではない」とか言ってる状況が極めて不健全ですし、差別的ですし、トランスヘイト問題にも通じる「当事者の無視・透明化」現象の一例に過ぎないように思えます。
何が差別か差別でないか、何が「アイヌ的」で何が「アイヌ的でない」か、和人如きに決める権利は無いのですから、大人しく当事者の方々の意見を聞いた方が良いんじゃないでしょうか。
インターセクショナルなアライアンスに向けて
では、当事者のことは当事者に任せるべきで、「アライは引っ込んでいる」のが正しい対処なのでしょうか。
今の「ゴールデンカムイ」に纏わる「議論」の大半はそうだと思いますが、マイノリティへの差別はマジョリティ側の意識の問題であるため、それを解決するには「マジョリティ側」の人間が対処法を考える必要があるのもまた事実です。ではどうすればいいのでしょう?
上記のツイートをしたHagireさんとjingさんは、ともにアイヌではありませんが、それぞれ「トランスジェンダー」「台湾ルーツ」というマイノリティ属性を持っており、自身の体験から敷衍してアイヌ差別の問題を語られています。
これはインターセクショナリティの考え方に通じる態度であり、マイノリティへのあらゆる抑圧が、個々で明確に違う形を持つにもかかわらず、ある側面において「共振している」好例を示していると思います。
自身の被差別体験や暴力のトラウマを、個別的なものとして扱いつつ、実はどこかの点で他の抑圧と「類似した」ものと捉えること。全ての属性において完全に「マジョリティ」である人間が少ない以上、こうした捉え方を行う事によって、和人の体験と決定的に異なる「アイヌ差別」の体験についても、違った角度から捉え直すことが出来るのではないでしょうか。
野田先生も松崎氏も、どこまで行っても「(当事者と無関係な)アライ」としての捉え方から抜け出ておらず、にもかかわらず「自分の意見」を表明しているから「マジョリティの傲慢」を指摘されるのであって、そうではなく、自分自身もまた「マイノリティ」であるという視座があり、お互いの違いを尊重しつつも「類縁性」を探っていく試みにしか、「マジョリティによるマイノリティ理解」の道は開けないように思います。
ところで、野田サトル先生が北広島市出身なのを今回初めて知ったのですが、あの街は広島県出身の農民が開拓がてらに作った「広島村」を前身に持ち、札幌市以上に人工的・植民都市的な色彩の強い街です。現代でも札幌の衛星都市として機能しつつ、本州のゼネコンを招致して日ハムドームを建設したり、札幌を出し抜いて三井不動産のアウトレットパークを作ったりと、「ザ・和人」の植民地開拓仕草が随所に見られます。
野田先生は、まずそんな街で育った自分が、本当に「アイヌアライ」なのか(道南地域と比べて当事者人口も少ないのに)疑うところから始めた方が良いんじゃないでしょうか。同じ街の出身者としては、素朴にそう思ってしまいました。
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