![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/90195465/rectangle_large_type_2_0dcf7dff66946298af1512f7fdb3acf6.jpeg?width=1200)
君がそれを言う資格はない―「ゴールデンカムイ」とマイノリティと(時々)アライについて
(タイトルバナー写真:どうしん電子版記事より)
こんばんは、烏丸百九です。
結局、月末ギリギリの更新になってしまいました……。
最近、有名コミックの「ゴールデンカムイ」について、ちょっとした炎上騒ぎがありました。概要を知らない方は、以下のリンクを見れば大体の話はわかるかと思います。(ネトウヨの作ったまとめなので、閲覧にはご注意下さい)
私は「ゴールデンカムイ」を未読ですし、作品の内容について云々するつもりはありません。また「炎上」事案そのものが既に沈静していることもあるので、その内容について書くことも特にないです。
今回はより一般論的な話として、「マイノリティ当事者とアライ(=支援者)」の話をしたいと思います。
超ゴーマンな「アイヌアライ」の皆さん
様々な意見を読んで思ったのは、「ゴールデンカムイ」作者の野田サトル先生を含む、自称「アイヌアライ」の人たちの傲慢さです。
野田先生は、作品の完結記念に以下のインタビューに答えており、その内容が「まっとうな反差別だ」と各所で絶賛されているようなのですが……。
――作品が現実社会にもとてもいい影響を与えているという実例ですね。
対称的に、僕が『ゴールデンカムイ』で露悪的に差別などネガティブな側面を強調して描けば、彼女たちが喜んでいた事実がすべて無になってしまう危険性があるとも思いました。
もちろん、藤谷るみ子さんの話がアイヌの方の総意ではありません。
アイヌにだって、和人にだって、いろんな歴史観、イデオロギーを持つ人たちがいます。ただ言えるのは、アイヌの方たちは和人とフェアな関係を望んでいる方が多いです。その思いに寄り添って、共に生きていけるようにという願いを込めて最終回を描きました。
それで救いになった人がいたというだけで僕は満足です。
ただ最近でも、アイヌをルーツに持つ若い女性とお話をする機会があったのですが、「この作品が始まって、周りから『実は自分もアイヌの血を引いている』と打ち明けてくれた方が3人もいるんです」と教えていただきました。藤谷さんのお話が僅かな一例ではないと思うのです。
ここで注意すべきなのは、上記の野田先生のコメントが「本人の意見(というか願望)」と「アイヌ当事者の意見」をゴチャゴチャにして述べていることです。
「露悪的に差別などネガティブな側面を~危険性があるとも思いました」
「ただ言えるのは、アイヌの方たちは和人とフェアな関係を望んでいる方が多い」
「その思いに寄り添って、共に生きていけるようにという願い」
↑これらは全部「野田先生のご意見」で、
「(文中にある)藤谷るみ子さんの話」
「この作品が始まって、周りから『実は自分もアイヌの血を引いている』と打ち明けてくれた方が3人もいるんです」
↑これらが「アイヌ当事者の意見」です。
「イデオロギー」を無視して公平に見れば、後者から前者を導き出すのはハッキリ言って無理があります。「アイヌ当事者の意見」がn=2でしかなく、公平な方法でアンケート調査を行ったわけでも、(「総意」を取る気はそもそも無いにせよ)「当事者間で一般的な見解」であるかさえ、一般人には判断しようが無いからです。
そもそもの話なんですが、この手のマイノリティ差別の問題について、「アライ」が意見を言う資格は基本的に無いと私は考えています。
「アライ」はどこまでもアライでしかなく、「当事者」と「非当事者」が(こと混血の進むアイヌ民族においては)すっぱりと分けることが出来ないものだとしても、母語話者が消滅寸前の超少数派民族にアイデンティファイして人生を歩んでいる(当然に超少数派の)人々と、そうでない和人が対等(フェア)に「アイヌ問題」について意見出来るわけがないからです。
ですので、「アライ」の活動は基本的に、当事者の方々の話を広げる「拡声器」として振る舞うことであって、自分の意見を述べることではありません。
その意味において、「ゴールデンカムイ」を批判した松崎悠希氏の意見もまた、「当事者」の見解を無視して自分の意見を述べたものに過ぎないと思います。彼は優秀な「マイノリティ・アライ」だと思いますが、アライはアライなのであって、アイヌ当事者でないことは本人が一番よく知っているはずでしょう。
アイヌも和人もあまり批判しなかった作品であっても、問題は山積みだ。でも、声を上げてもどうにもならなかった。
— マユン (@marewrew_m) October 22, 2022
マユンさんとイタカンロ+003「チロンヌㇷ゚カムイ イオマンテを観たぞの巻」 https://t.co/tMcFgeZmwl @YouTubeより
ゴールデンカムイ、当事者が演じるかどうかだけではなく、あれをまた新たな形で発信していくことの問題点も語られないといけないよ。実写化のために大幅に内容を書き換えるわけでもないだろうし。アイヌのことだけではなく、酷い描写や扱い方が沢山あるよ。
— マユン (@marewrew_m) October 22, 2022
アイヌを起用しようがしまいが、暴力性や批判すべき部分はなくならない。和人が和人のためにアイヌを使った作品を作っただけなんだから、全部和人で責任を取ればいい。これ以上無責任にアイヌを巻き込まないでほしい。アイヌを使えと言ってる人たちで、使われたアイヌを守ってくれる人なんていないよ。
— マユン (@marewrew_m) October 22, 2022
アイヌとして起用された人はアイヌとして生きていくんだよ。アイヌであるという自分を選んで、背負ってしまうんだよ。自分が何者であるかというのを選択して背負わなきゃいけないってきつい。今はまだアイヌってだけで色眼鏡で見られることが多いし、何をするんでも「アイヌの」がつけて語られる。
— マユン (@marewrew_m) October 23, 2022
ご立派な「反差別」のお題目を掲げるのは結構なのですが、↑こういう「真に重く受け止めるべき当事者の抗議」をガン無視して、アライな人々が偉そうに「これは差別だ」「いや差別ではない」とか言ってる状況が極めて不健全ですし、差別的ですし、トランスヘイト問題にも通じる「当事者の無視・透明化」現象の一例に過ぎないように思えます。
何が差別か差別でないか、何が「アイヌ的」で何が「アイヌ的でない」か、和人如きに決める権利は無いのですから、大人しく当事者の方々の意見を聞いた方が良いんじゃないでしょうか。
インターセクショナルなアライアンスに向けて
では、当事者のことは当事者に任せるべきで、「アライは引っ込んでいる」のが正しい対処なのでしょうか。
今の「ゴールデンカムイ」に纏わる「議論」の大半はそうだと思いますが、マイノリティへの差別はマジョリティ側の意識の問題であるため、それを解決するには「マジョリティ側」の人間が対処法を考える必要があるのもまた事実です。ではどうすればいいのでしょう?
トランスジェンダーとハリウッドを観た時、何度もステレオタイプを演じたトランス当事者達が「苦痛だった」「でもそうするしかなかった」と言っていた。当事者を起用することでその当事者を苦しめてしまうこともあるしマジョリティの和人がただ当事者がただ演じろというのは危うい点もあるとは思う。
— Hagire🐀🏴☠️🏳️🌈🏳️⚧️ (@hagire_nunokire) October 26, 2022
なぜアイヌの俳優を探すことが難しいのか、そもそもなぜこんなことになってしまっているのかずっと和人は考えていかなければいけないことですよ。和人が虐殺をし土地も名前も文化も奪ったことが頭からすっぽ抜けてなぜアイヌ当事者じゃなきゃいけないの?と言っている和人の皆さんは学んでください。
— Hagire🐀🏴☠️🏳️🌈🏳️⚧️ (@hagire_nunokire) October 26, 2022
台湾では原住民(先住民)の役は原住民が演じるのが基本原則となっているけど、それでも毎年懲りずに批判を浴びるようなことが起き、当事者である原住民は何度も煮湯を飲まされているので正直冷めている人が多い。
— jing (@_Aproject2) October 26, 2022
漢人に協力しても地獄、協力しなくても地獄。どちらがマシな地獄か個人が選択を迫られる
「協力しても地獄、協力しなくても地獄」とは、非原住民が作る作品に瑕疵があった場合は協力者に責任を押し付けられることがあるし、協力を断れば原住民の視点が全く入らない酷いものが作られてしまう。
— jing (@_Aproject2) October 28, 2022
多くの文化活動従事者は「少しでもマシな物を作りたい」と考えて協力し、批判にさらされ傷つく。 https://t.co/3vpLepQBfq
上記のツイートをしたHagireさんとjingさんは、ともにアイヌではありませんが、それぞれ「トランスジェンダー」「台湾ルーツ」というマイノリティ属性を持っており、自身の体験から敷衍してアイヌ差別の問題を語られています。
これはインターセクショナリティの考え方に通じる態度であり、マイノリティへのあらゆる抑圧が、個々で明確に違う形を持つにもかかわらず、ある側面において「共振している」好例を示していると思います。
清水や藤高は、近年日本で展開されるトランスジェンダーの人々への集中的な攻撃と差別を批判し、シスジェンダーのレズビアンでありウィメン・オブ・カラーであるサラ・アーメッドがトランスジェンダー女性との連帯について語った「ハンマーの類縁性」という概念を取り上げている。
アーメッドは私たちの存在を少しずつ削っていくような制度的差別の暴力を「ハンマー」と呼んでおり、シス女性とトランス女性の経験するハンマーが同じではないことを確認し、その上で双方が経験するハンマーの類似性を見出そうと努力する試みこそがインターセクショナリティであると説明している。清水が語る連帯の可能性について以下のように提示している。
連帯は、私たちがお互いの同じではない経験、同じではない壁、同じではない抵抗を互いに認めるところから、複数の「ハンマー」の同一性ではなく類縁性を見いだし獲得するところから、始まる。
自身の被差別体験や暴力のトラウマを、個別的なものとして扱いつつ、実はどこかの点で他の抑圧と「類似した」ものと捉えること。全ての属性において完全に「マジョリティ」である人間が少ない以上、こうした捉え方を行う事によって、和人の体験と決定的に異なる「アイヌ差別」の体験についても、違った角度から捉え直すことが出来るのではないでしょうか。
野田先生も松崎氏も、どこまで行っても「(当事者と無関係な)アライ」としての捉え方から抜け出ておらず、にもかかわらず「自分の意見」を表明しているから「マジョリティの傲慢」を指摘されるのであって、そうではなく、自分自身もまた「マイノリティ」であるという視座があり、お互いの違いを尊重しつつも「類縁性」を探っていく試みにしか、「マジョリティによるマイノリティ理解」の道は開けないように思います。
ところで、野田サトル先生が北広島市出身なのを今回初めて知ったのですが、あの街は広島県出身の農民が開拓がてらに作った「広島村」を前身に持ち、札幌市以上に人工的・植民都市的な色彩の強い街です。現代でも札幌の衛星都市として機能しつつ、本州のゼネコンを招致して日ハムドームを建設したり、札幌を出し抜いて三井不動産のアウトレットパークを作ったりと、「ザ・和人」の植民地開拓仕草が随所に見られます。
野田先生は、まずそんな街で育った自分が、本当に「アイヌアライ」なのか(道南地域と比べて当事者人口も少ないのに)疑うところから始めた方が良いんじゃないでしょうか。同じ街の出身者としては、素朴にそう思ってしまいました。
![](https://assets.st-note.com/img/1667223102452-8vki5m3NOZ.png?width=1200)
マイノリティへの差別に反対する方、私にご支援やカンパをしていただけるご意志のある方は、是非↓から記事orマガジンを購入して支援をお願いします。
ここから先は
¥ 300
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?