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田舎に無印良品ができて、田舎の民が失ったモノとは何か

はじめに

私の住んでいる田舎にも少し前にガチの無印良品がやってきた。

それまでローソンで我慢をしていた田舎の民たちは自家用車で大挙して無印良品へ押し寄せた。

その流行は半年くらい続きその後はだいぶ収まっているものの、例えばゴールデンウィークやお盆には、無印良品はそれらの年中行事と無関係であるにもかかわらず、いまだに異常な混雑となっている。

さて私たち田舎の民は、無印良品がこうして地域に定着していくプロセスのなかで、ある一つの喪失を経験した。

田舎の民のある喪失

無印良品がやってきたことで失われた気持ちがある。

無印良品が自分の街にない時、私たち田舎の民は札幌にある無印良品で買い物をしまくっていた。ステラプレイスパルコに行って、とにかく無印の商品を買いまくっていた。

札幌に行けば。

札幌にさえ行けば。

無印良品がある。あるのだ。

だから札幌に行って、無印良品でなにやらなにやら買い物をしていた。

田舎に無印良品ができた。最初期には、先述の通り狂騒としてそれは迎え入れられた。

ところが、それがあることが当たり前になっていった時、私たちは無印良品へのある種の渇望を失った。

あれほど、札幌において田舎の荒れ狂う浜辺のような気持ちで無印のシャンプーやらスウェットを買っていた我々が、夏の日の凪いだ浜辺のように、無印良品のある広い道路をただ通過してしまうようになった。

私たちのあの無印良品への気持ちは、無印良品ができたことでなぜか消失してしまった。

都会と田舎の浸透圧

私たちは、田舎だからこそ都会のあれこれに恋焦がれる。恋焦がれ続けてきた。

無印良品ができた瞬間に我々は大挙して押し寄せたわけだが、それはかつて、ニチイだったり長崎屋だったりイトーヨーカドーだったりで繰り返してきた事柄だ。マクドナルドもそうだしバスキンロビンスもそうだ。

私たち田舎の民のエネルギーの一つに、都会への渇望がある。これが日々の生活でも、何か文化的な創造でも、確かに原動力になっていたはずだ。

田舎に都市の何かがやってくる。このことで便利で楽しくなる反面、私たちの牙が一つずつ抜かれていくような気がしてならない。

私たちは例えば漫画の単行本の発売日がちょっと遅かったり、特定のテレビ局が入らなかったり、札幌まで行かないとみられない映画とかがたくさんある。

これらは不便だが、実は私たち田舎の民の「負けないぞ」とか「頑張るぞ」とか「いつか都会へ」とかいう気持ちのエネルギー源にもなっているということだ。

おわりに

田舎に無印良品がやってくることは一つの寂しさがある。私たちが持っていた、無印良品への渇望はそれゆえに失われるからだ。

世の中どんどん便利になって、こうしたことがどんどん広がって、私たちの渇望がいつか潰えてしまうことがあるのかもしれない。

一見するとそれはとても良い状態に見えることだろう。だが、田舎はそれで良いのだろうか。私には重すぎて判断し得ない事柄だ。

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