見出し画像

露天風呂で「防御力0」でいた時にでくわした危険な出来事


はじめに 巧妙ないたずら

時に子供は残酷な方法でいたずらを考える。そしてその方法は、子供が思った以上に深刻な問題を引き起こす。今日はそんな話。

1 露天風呂はよく考えたら防御力0

銭湯に行く。脱衣所で衣服を脱ぐと、そこから先は裸一貫。私は男なので男湯に入るのだが、男たちはその服装でなんとなくわかるバックグラウンドを脱衣所で脱ぎ捨て、浴室へ赴く。

浴室はいわばアジールだ。脱衣所では、ガテン系の衣服をきた日焼けした男が、サッカー系のTシャツとハーフパンツを着た細身の男が、子供連れのお父さんが、セカンドバッグを持ったおじさんが、それぞれのバックグラウンドを服と共に置き去りにし、浴室へ臨む。

男たちは、ここで平等になる。年齢も収入も関係ない。あるのは風呂場でのマナーだ。

そんな男たちは時には露天風呂へ赴くだろう。子供が楽しみにしているとか、ちょっと外気を浴びたいとか、ほんの少しの動機で、男たちはスーパー銭湯の浴場内を周遊し、愉しむ。

そこは平穏だ。仕事や家庭のあれこれを一瞬ながら些事と思える、俗世から一瞬遊離する、そんな雰囲気がある。

ところが、よく考えると防御力0なのだ。いやタオルは防御力1くらいありそうだ。

いずれにしても防御力0〜1なのだ。社会的背景を脱いできたからといえるし、もっと単純に服を着ていないからともいえる。

今日はそれを嫌と言うほど味わった話。

2 中学生のいたずら

それで、中学生が露天風呂にいたずらした話なのだが、それは露天風呂の外の道路から、街路樹になっている硬い木の実を投げ込むというものだった。

私は休日の昼下がりに露天風呂でのんびりしていると、バツン! みたいな衝撃音を聞いた。

そして何か小さな破片がコロコロ転がるのを見た。次には、確かに木の実が露天風呂の外から投げ込まれているのを確認した。私が確認した2撃目は、露天風呂の枯れ山水みたいな砂利のところに着弾し、小石を跳ねて転がっていった。

木の実が割れて破片が散らばる。

どうも中学生がやっているらしい。常連の誰かが店員に聞いたのだろう。時をおかず、私もそれを知ることになった。

このいたずらは、大変よくできている。いたずらとして完成度が高い。中学生は圧倒的な優位な立ち位置にある。

諸賢もなんとなくご理解いただいていることと思うが、私たち露天風呂の民は木の実を投げ込まれたとして反撃や制止の余地が一切ない。「こらー」と言って相手を追いかけることが何重の意味でも不可能だ。

すなわちまず服を着ていない。お金を払って入場しており、そこから退出しないと外に出られない。外とは壁で見えないように仕切られており、犯人を目視することは不可能だ。

中学生はこれを完全にわかった上で、防御力0か1の無辜の露天風呂民へ攻撃を加えていたのだ。

無辜の民と書いたが、睾丸はある。この字って似てるよね。

そして私はあらためて、人類が服を着用するようになったここ数万年の歴史の長さや重みを想った。ここには2重の意味がある。体毛から衣服へ、皮膚を守る手段が次第に変わったこと。また、服装が役職や仕事を現すようになったこと。

中学生の悪戯はそうした人類史や、人類が培ってきた社会性へ打撃を与えるものだった。

3 中学生の想像力

中学生が行ったいたずらがもたらしうる事故は、大人ならいくつもあげることができるだろう。

木の実はかなり硬い。頭や目とかに当たったら本当にまずい。体の一部分であっても、裸では相当のダメージになる。また木の実に驚いて滑って転ぶ可能性もあるだろう。

店側としても由々しき問題だ。露天風呂に木の実が飛んでくるのだ。客足が遠のきかねない。

結局スーパー銭湯側が学校に申し入れたようで、大人たちの仕事により中学生のいたずらは収まったようだ。

中学生はこうした身体や経済へのリスクを想像できない。だからこんな愚挙に及んだ。自分の行動がどのような結果をもたらすのか、想像力が未発達だった。

まぁ、こんなことは簡単に言えるし、おそらくそうした直接的なところには、学校側から指導が入ることだろう。

ただ。この悪事には、もう少し、その先があるように思う。

4 想像力のその先 銭湯という空間への攻撃

前章を受けて、あらためて。

彼ら中学生は、大人がその人生の中でホッと一息つける銭湯という空間をくじいたことにこそ、想像力を働かせるべきだったのかもしれない。

怪我をするから、危ないから、銭湯の売り上げが落ちるから。これは現代社会の身体性や経済性に担保された理由だ。これらとは別種の、「やってはいけなかった理由」がある。

冒頭で述べたように、人々が普段の身分を服と共に脱して、風呂場のルールだけになって裸一貫でのんびりする。

そうした銭湯という特殊な空間への領空侵犯に、中学生のいたずらの悪事としての射程は伸びている。

人は、社会的地位や経済力を脱衣所に多く置きざりにし、スーパー銭湯に入る。頑是ない中学生は、このボーダーレスな空間を攻撃した。

おそらくは、学校教育ではこの点は指導が入らない。アジール性は現代社会では顧みられない。

怪我をするから、危ないから、銭湯の売り上げが落ちるから。人格や法人への侵害だけが取り沙汰される。ところが、中学生の悪事は、それに止まらない要素が含まれる。

中学生でこれに気がつくのは難しく、仕方がないのかもしれない。きっと大人になって仕事についたりあるいは家事をしたりして独り立ちして、自分でお金を稼いだり家庭や社会で役割を果たすようになって、はじめて銭湯のアジール性に気付けるのだろう。

木の実を投げていた中学生は、こうしたことに、彼の未来の人生のどこかで気がつくことができるのだろうか。

木の実の飛んで来なくなった露天風呂で、このことを考えて少し寂しくなった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?