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『ふつうの軽音部』の良きところと、『ジョジョ』スタンドバトルが大人数で行われないことについて


『ふつうの軽音部』の良さ

漫画『ふつうの軽音部』の魅力について語っていくぞ。

『ふつうの軽音部』はキャラクターの配置が巧みで、楽しく漫画を読み進めることができる。

そしてなんというか、安心してみていられるのも良さの一つだと感じている。

『ふつうの軽音部』は出だしから登場人物が多いタイプの漫画だ。またそれぞれのキャラクターの掘り下げも、過去の出来事の紹介などから随時行われる。彼らは作品世界の中で万能ではない。人間的衝突や悩みをそれぞれ抱えている。

とっても普通の感想になっちゃうのだが、『ふつうの軽音部』の良さは、そんな登場人物同士のやりとりや掛け合いのなかで物語が進んでいくところにある。

いわば人間関係の「あわい」に物語の本質があるといってもいいだろう。


ところで、登場人物をたくさん出して、各キャラクターの魅力で物語を牽引していく漫画作品もまた多い。

そうした漫画の中には、あまりに登場人物が多くなり、かつ登場人物たちのエピソードが積み重なってしまうものがある。

その結果、人的ネットワークが過剰になり焦点がぼやけ、作品全体が沈下していってしまうことがある。

漫画経験の長いみなさんも、読み進めていくうちにキャラが出過ぎて(それでそれぞれにファンもできたりして)なんだかワチャワチャしちゃう漫画を、ご覧になった経験があるかもしれない。

『ふつうの軽音部』は登場人物が多めの作品でありながらその傾向は少ないように思う。登場人物多いし過去エピソードもモリモリ、ときには生々しい人間関係とかも出てくるんだけれども、妙な安定感がある。

この妙な安定感が、この漫画の魅力を下支えしている。

今日は『ふつうの軽音部』の面白さの根底に、この安定感があるってのを指摘したかったわけだ。

それじゃ、ちょっと寄り道して『ジョジョの奇妙な冒険』から、このことについて考えてみよう。


『ジョジョ』は大人数スタンドバトルを決して行わない

『ジョジョの奇妙な冒険』は味方チームが複数人いたとしても、あるいは敵チームが複数いたとしても、大人数同士のバトルに発展しない。

このことについては上記の考察サイトが、ジョジョの世界観を非常に尊重しつつ語っており大変参考になる。ジョジョでは2能力対2能力以上の人数で戦闘にならない、という指摘だ。

大人数での戦闘は盛り上がりそうなものだが、作品世界ではそうなっていない。

私もこのことについて考察してみよう。おそらく下記のような理由で避けられているのではないだろうか。

・大人数どうしの戦いは、個別のスタンド能力の魅力を引き立てられなくなる。

・また、それらを解決するための(主に味方の)スタンド能力や信念、ポリシーの表現がぼやけてしまう。

魅力的なキャラは足せば足すほど面白くなりそうだが、いざバトルになると大人数ってのは足かせになるのだろう。

また純粋に

多人数同士の戦いに読者の処理能力が追いつかない

という可能性もあるだろう。

ジョジョは魅力的なキャラクターが敵味方を問わず登場するが、絞るべきところを厳密に絞ることで、作品の神髄を守っている。


『ふつうの軽音部』作品内の求心力

それでは、『ふつうの軽音部』の「絞り」とはなんだろうか。ジョジョが多人数バトルに禁欲的であることでその哲学を担保したのと同じように、『ふつうの軽音部』も漫画の論点が拡散しないための策を講じているはずだ。

たぶんそれは主人公の鳩野ちひろに物語の糸がうまく集中しているところにある。

主人公のはとっちは、ギターの技術はこれからだし、桃ちゃんとかと比べるとビジュアルはかなり地味だし、いろいろ失敗もするし、会話で余計な一言があったり、家庭環境にも複雑なところがある。

それでも、みんなが見ている通り、彼女は健気で頑張り屋さんで、応援したくなる。女子同士の人間関係も失敗ありつつもそれなりに上手だし、男女関係のイザコザに対して時には感情を昂らせて相手に詰め寄ったり、寡黙な男の子を寡黙なだけで悪い人じゃないとしっかり理解できたりする。

そしていうまでもなく、バンドメンバーの心を揺り動かした「歌声」という強力なカードも持っている。

作品の複雑で時に錯綜しそうになる人的ネットワークの中心に、はとっちがしっかりちゃんと位置しているのだ。

そしてしっかり中心にいるためのキャラクター的魅力と素敵な歌声とを、彼女は、ちゃんと持っているのだ。

さらに言えば、そうした彼女の特性がしっかりストーリーの中で機序よく発揮されているのだ。

こうしてしっかり作品が引き絞られ、私たちは妙に安心して作品を楽しむことができる

もちろん漫画だから、どうなっちゃうんだろう? となる展開は多い。

ところが同時に、いろいろ大変そうだけれどもはとっちがいればなんか何とかなるんじゃねーかな? みたいな、淡い期待を私たちは余裕で持つことができる。

もちろんここには、原作者/作画/その他編集方など作品を作り出す人々の、厳密でバランスの良い方向感覚が充分に働いているのだろう。


おわりに 神

複雑で生々しくもある人間関係に沈没せず『ふつうの軽音部』をどこか安心しながら見られるところが、作品の魅力につながっていることを書いてきた。

ネット上の鳩野ちひろの愛称は「神」だ。直接的には、登場人物幸山厘ちゃんのはとちゃんへの熱狂的信奉からこうした愛称になったのだろう。そして多くの人がはとちゃんが「神」っぽいと感じたから掲示板での愛称として定着してきたに相違ない。

おそらくこの呼び名は、本稿で語ってきた安定感と無関係ではあるまい。

はとちゃんの人間的魅力、歌唱力からなる求心力に神性やカリスマ性を見出すことは容易いし、そうした構造は音楽というジャンルにおいて受け入れやすいものと思う。

私たちは「神」を信じている。「神」を信じているから、楽しく、安心して漫画を読み進められているのだ。


作品がさらにたくさんの人に愛され、作り手の方々・読者含め、作品がよりよく成熟していくことを心からお祈りしている。


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