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小川があれば



私の祖父母の家は両方とも市街地から離れたところにあって、それぞれ近くを小さな川が流れていた。

父方の祖父母の家は、山間に流れる渓流のそばに建っていた。その水量は生活のために用いるにはやや大きすぎた。ところが近くに小さな沢があり、程よい水量を提供していた。現在でもここから家に水を引いているようなので、その昔はこの沢の水を使って生活していたのだろう。

母方の祖父母の家はもっと単純で、段丘の下に位置していたから家の傍わらに湧水があった。水山葵などが生えており、湧水は曽祖父が造成したいくつかの池に流し込んでいた。

適度な水量の小川があればどんなに便利だろうか。

もう少しくわしく言うと、ちょっと洗い物ができる適度な水量の小川があればどんなに良いだろうか。

料理をしていると小さな野菜クズなんかが出てくる。食べ終わったお皿にはどうしても食べ物や調味料などの小片が残る。

これらを、そっと流せるような小さな流れがあればどんなに良いか。そうした生活はかつて確かにあったことだろう。台所や流しを掃除していていつもそう思う。


小川が傍わらにある生活には、いくつかの前提がある。

ひとつめは、小さなゴミを流しても良いという状態だ。さっき書いたとおり、細かいことを考えなくてもよい。流し台のゴミ受けやバスケットをこまめに洗わなくて済む。

現代でも生活のための用水路が地域に生きている場所がある。郡上八幡には「かわど」という水を生かした仕組みがあり、食器を洗うことができる。流される食べ物の小片は、水に棲む生き物の食餌となるのだという。

こうした環境があれば、小さな食事で出る食べ物の残りをそんなに気にせず洗い流すことができる。

もう一つ、小川で食器を洗いうる理由として脂っこくないお皿という条件があるだろう。食器につく汚れに脂が少なければ容易に水に流せる。

ところが現代では、洗剤でゴシゴシしないといけない時代になっている。お肉が食事に提供されやすくなった。

身近な水の流れを生かした暮らしが特定の地域を除けば難しくなったこと、そして食べている食品が変容してしまったこと。祖父母の時代にあった小川で家事をする(とくに皿洗い)生活は、遠くなってしまったわけだ。


と、ここまで書いたが、バレなきゃいいんだよなぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッッッッ!!

祖父母が生きた昭和の時代はおおらかだったし、どちらも農業関係の仕事なので他の家と距離があるから、もっと豪快に何かを流せていたかもしれない。誰にもばれないから

洗剤で洗う時代になったことについても、昭和の、他の家から遠い家だったら、たとえ湧き水や沢水で食器を洗剤を用いて洗っても、誰も咎めることはなかっただろう。

多分絶対、祖父母の時代は絶対今川に流しちゃいけないものを流していたと思う! 何かはわからないし、その何かがもしわかったとしてもここに書けないような、何か! とんでもねえものを川に流出させていたような気がしてならないのだ。あのじじいどもならやりかねねえぜ〜〜〜〜〜〜〜ッ!

思わず頭がモヒカンになる。

こんな感じで述べてきた、「小川があればなぁ」と言う感情を剥いていくと、私のなかにあった邪念にたどり着き、思わず自分でもびっくりする。

「水回り洗うのめんどくせえな。だまってちっちゃいゴミを川に流せると楽なんだがな。ともすればその川で洗剤使ってゴシゴシしてえな」という邪悪な気持ちがあらわになる。

noteは洒脱なウェブサイトなので「小川があれば」とか叮嚀な書き振りで調子こいたはいーが、結局私の根底にある心性が小さな野菜クズみたいな状態なのだ。

まぁ、気持ちに正直になるのも大切かなと思う。無理しちゃいけない。この正直な気持ちで、ありし日の祖父母の小川を邪悪に夢想しながら、これからも妻に怒られつつも水回りの掃除や維持管理を頑張っていきたい。

本当に、沢や湧き水の時代は遠くなったのだ。そして、流しにはさっき食べたカルビのお皿がある。

小川があれば……小川があれば……。

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