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4月8日という日

これを書いているのは4月8日である。エイプリルフールの1週間後だ。Wikipediaを見ると、今日は忠犬ハチ公の日だし、タイヤの日でもあるらしい。また、沢尻エリカの誕生日だとか。1587年には豊臣秀吉が九州の島津氏を討伐するために大坂城を出発したし、1959年には週刊文春が創刊されたらしい。1820年にはミロのヴィーナスが発見されたらしい。何かとアツい日である。
Wikipediaを見る前に、何の日があるかなあと、語呂合わせを考えていたが、思いつかなかった。4だからシ、8だからハ…。シ、バ。シバの日でいいじゃないかと。「ポケットモンスター」シリーズのカントー地方四天王の1人、シバの日にしよう。あの、ホウエン地方のムロタウンのジムリーダー・トウキと修行を積んだという逸話が意外と知られていたりいなかったりする、あのシバでいいじゃないか。ゲームボーイアドバンスで「ファイアレッド/リーフグリーン」をプレイしていた幼少期、そんな「シバとトウキに交流がある」なんてストーリーに一切関係ない話で喜んで今も覚えているあたり、その頃からオタクの素質があったんだなとしみじみ思う。



さて、エイプリルフールから1週間ということは、前の投稿から1週間が経ったことを意味する。「#毎日投稿」なんてかっこつけたハッシュタグをひっさげ投稿したものの、1週間空いてしまった。言い訳をしたい。「書こう」と思ったのが今日だったので、「『書こう』と思っていない日」をノーカウントにすれば、実質毎日投稿である。安心してほしい。


“大人”ってなんだ


前の投稿で、すでに社会人として働いている人を「先に“大人”になってしまった人たち」と表現した。つまり、給料をもらって働いている人(なぜかアルバイトは除外するけど)を“大人”と呼んだのだ。しかし大学に入った頃なんか、4年生、いや3年生ですら“大人”に見えた。何をもって“大人”と呼ぶのかは時と場合によって異なるんだろう。それについてちょっと考えてみたい。

歳を重ねれば大人になるわけじゃない」と、今まで直接話したり、テレビやなんかで見たような“大人”たちは口を揃えて言っていた。
画像をどこまで載せていいかわからないから載せないけど、2013年放送開始の「仮面ライダー鎧武」にはシドという人物が登場する。浪岡一喜が演じるそのシドは、とてもクセのあるキャラクターになっていて、主人公たちの前に何度も立ちはだかっては、自らも仮面ライダーシグルドに変身して戦う。サクランボと北欧テイストを掛け合わせたデザインがなんともかっこよく、フィギュアでもいいのでURLを貼っておく。


なんで突然この仮面ライダーの話をしたのかというと、戦闘の時彼は何かと「聞き分けのない子供は嫌いだぜ…」「ガキはガキらしく、大人の書いた筋書き通りに遊んでりゃよかったんだ!」など、自分たちは大人で主人公たちは子供だというのを強調していたからである。「おとな」という言葉を聞くとシグルドのかっこいいデザインと、浪岡一喜のセクシーな髭を思い出すくらいにはこのキャラクターが好きだ。でもすぐそういうこと言うあたりが自信のなさを表しているように見えたり、何かとかっこつけたがっていたり、感情で突っ込む描写が多かったりと、シド自身が「子供」なんじゃないかと思えてきてしまうような、ダサさが好きだった。

放送当時は、ぼくからしたら年上の主人公たちも子供呼ばわりするなんて、大人って何歳からなんだろう、果てしないなあとか、そんなことを考えていたくらいだけど、今思い返すとシド、魅力的なキャラクターだ。

ちなみにサクランボの花言葉は「幼い心」らしい。ここまで考えてキャラクターが作られていたのかもとか考えると、改めてクリエイターの人たちを尊敬する。

主人公の鎧武とは写真を撮ってもらったことがある。ナチュラルに肩を抱かれて惚れてしまった。

選択肢が増えた時、人は“大人”になる


じゃあ何をもって人は“大人”になるのか。「大人になったなあ」と感じた時をいくつか挙げてみたい。

・コーヒーがブラックで飲めるようになった時。

・テレビでたまたま怖い話をやっているのを見ちゃった夜でも、落ち着いてトイレに行けた時。

・知らない人に道を尋ねられて教えたら、それに対してそれまでは「ありがとう」だったのが「ありがとうございます」と言われた時。

・初めて終電に乗った時。また、逃して始発で帰った時。

・10代の頃からの友人と、日本酒を飲みながら過去の話をした時。

こういう「酒に合う食べ物」を欲するようになった時も、なんだか大人になった気がする。


フラワーカンパニーズの「大人の子守唄」を思い出した。お酒だけじゃなくてセックスや肩書きなど、ずっとこんな感じで「なんで大人は〜」みたいな歌詞がすき。




いろいろあるが、だいたいは「何かができるようになった」みたいな、「こうなった」という、人生において何か要素が追加された時が多く浮かぶ。
しかし本当にそうだろうか。それとはちょっと違う、何かを失った際に「“大人”になった」気がする例が浮かんだので、ここに記しておきたい。
それは、道で見る葉っぱや虫をたいして気にしなくなった時だ。


何かを失っても“大人”になる時もある

先月まで住んだ家を離れ、近所の環境も大きく違う町にいまぼくは住んでいる。何が違うかって、子供が多い。前に住んでいたところが駅に近く、住宅街とは呼べないような立地だったこともあるだろう。先月まで小学生といえば、朝まで酒を飲んだ帰り道、痛む頭を抱えながら、眩しい色のランドセルを背負って高い声で会話する人たち、でしかなかった。しかし最近は朝も昼も夜も、何かと小学生を見る。さらに、自分が小学校に通っていた頃、通学路に生えていた植物と同じようなのが近所によく生えている。その目の前を小学生の集団が通り過ぎるのを見ていて気がついた。今のぼくと比べると、彼らの方が足元の植物に目線が近いんだ。だから気になるんだ。
葉っぱとか木の枝とか、面白くて名前をつけるようなことをすることもなくなって、全部「植物」になるし、向こうから飛んでくるのが蝶なのか蛾なのか、カメムシなのかカナブンなのか気にならなくなったあたりで、一度「“大人”になる」人がぼくを含めてたくさんいるんじゃないかなと、思った。

と、思ったんだが、今になってよく考えると、それでは身長の低い人はもれなく“大人”ではないのかとなってしまう。難しいから考えるのやめた。
とにかく、今まで考えていたことを気にしなくてもよくなった時も、人は“大人”になるんだ。


何も意味はないけど、この前読んで面白かった現代ビジネスの記事を載せておく。タイトルが少々煽り気味だけど。



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