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土佐日記はじめました#2 宴で別れを思い切り惜しむ

土佐日記は、紀貫之が5年駐在した土佐の国(現在の高知)を離れるところから始まります。そこでお別れ会が開かれます。それも何度も、盛大に。

5年もいたら、生活にも慣れ、現地とのつながりも生まれ、離れる方も置いていかれる方もどちらも寂しいでしょう。ましてや船で何日もかけて帰るような場所へと行くのです、花の都京都...。

神奈川から移住してきたカナデにとってもその遠さはわかります。Google mapで神奈川から高知を陸路で検索すると絶望するような時間が表示されます。でも空の旅ならさっと1時間。紀貫之の時代は船で55日間。その旅の長さを案じて、見送る人も見送られる人も盛大に宴を開きます。

別れを惜しむあまり、なかなか出発しない

そうなんです。土佐日記を読み始めた私は、宴を開きすぎてなかなか出発しないことにまず驚きました。

●12月20日
数年間親しくつきあってきた仲間とはとりわけ別れづらくて、日中はあれこれ世話をやいてもらって、大騒ぎするうちに夜がふける
●22日
藤原言美がやってきて、「馬のはなむけ」をしてくれる
 *馬のはなむけとは、送別の宴や餞別のこと。その昔、見送りの人が旅立つ人の乗る馬の鼻が向く先に向けて別れを告げた習わしに由来する。貫之の場合は馬に乗らず船にのるので、本文では「船路なれど...」とある。
この日の宴では身分の上下も関係なくみんな酔っ払いすぎて、見苦しいけど海のほとりでふざけあう。現代でも同じ光景があるので、すごく想像がつきます。
●24日
国分寺の住職が餞別をしにくる。またしても身分の上下も関係なく、今度は子供までも酔っ払っちゃって、千鳥足で遊び興じてしまっている。子供も酔っ払っちゃっている!
●25日
官舎から手紙を届けに来た人と歌ったり音楽をかなでたりして夜が明けてしまう。とにかく遊ぶな〜。
ここで解説にはこうある。「終日終夜という、やや狂態に近いものであった(p.19)」そうなのです。本文では「あそぶやうにて」と書いて、遊びの内容を若干ぼかしているのです。さすがに遊びすぎてはっきり書くにはしのびなかったのでしょうか。
国司を終えて去る紀貫之も、後任の新国司もみんな、「手を取り合って、ろれつもまわらぬ酔いことばで(『要説 土佐日記』p.19)」別れを惜しんで帰っていく。また想像つきますね。
●27日
ようやく船を漕ぎだす。みなさん、本当に別れを惜しんでいます。船を漕ぎだして少し先の港についてもなお、色々な人たちが酒やらなにやらを持って追いかけてくるのです。別れが辛いと告げに来てくれるのです。こんな人々はとくに情が深い人たちなんだと紀貫之も感じて、顔を出します。

7日間もひたすら送別会してるな!と読みながらつっこみをいれてしまったのですが、よく考えるとこれは今でも同じです。例えば赴任先を離れる時の送別会は色々なグループの人たちと行うから連日連夜になることはありそうです。昔も今も人間は変わらないひとときをまた一つ感じました。

当時の門出

その当時出発の時は、吉日を選んでまずは近いところに移り、そこから実際に旅に出る習慣があったそうです。
土佐日記では、まずは国司の官舎があった「館」から大津の港に移って例の送別会三昧の数日を過ごします。

この「館」は現在の御免町国分川のあたり、『要説 土佐日記』が発行された昭和39年ころは高知県長岡君国府村であった場所にありました。
送別会をした大津は今の高知県高知市大津、当時は高知湾に面していたそうです。(下の地図のAが国府のあたり、Bが大津です。今なら車で13分)


別れについて

カナデもアヤネも転勤族の星の元に生まれた一族の一員、幼いころから海を隔てるような別れを何度も繰り返してきました。三年ごとに日本と外国をいったりきたり、遠い海の向こうへ行く前にお別れをしてもらってきました。
幼いころはなんとも思っていなかったし、カナデは今も別れをなんとも思いません。何度も海を超えていったりきたり生活環境を変えてきたので慣れてしまったのです。本当に会おうと思えば、何かしら手段はあって誰とでも会うことはできる。そんな環境のある国々で暮らすことができているのは本当に幸せなことです。住む国の環境によってはそれは叶わないことでしょう。

都からやってきたえらい人・紀貫之を迎え、五年間共に過ごした土佐の人々は、貫之がいってしまうことをとても悲しんだのでしょうか...。貫之には都へ向かう船があるかもしれませんが、現地の人々には都へそうそう簡単に会いに行くなんてできなかったではないでしょうか。「次いつ会えるかわからない」どうしようもない寂しさ、感じたことありますか?

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