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想像力の先にあるもの

切り取ったり、細分したりが今の世の常・・
それが益々全てを間違った方向にすすめる元凶なのではないか。
ひとつで成り立つものは稀で、その周囲、そしてまた更にその周囲に“それ”は連続したり波及したり、伝播することであり得ないだろうと想像だにしないところに重要な意味をもったり、ルーツを共にしたりする。
大前提としてこの見立てを、我々が見聞きするすべてに適用し今一度学び直すことで見える多くがあり、それが最も大事なこととしての気付きになっていないといけないのではないかとさえ思う。
未だ全くそういう方向には振れていない。

それにしても、連環リンクにキーワード、キーパーソンだけをさらってもざっと150くらいになるので、それをどうこうするだけでも大変壮大な作業になる。
これが、頭に収納された上で紡がれる言葉の数々・・そりゃ重みが違うわなと感心するしかない。

キツネ憑きってのは個人的に好きな解釈。
わからないものをその人本人のどうこうとするのではなく、狐がという、どことなく外に追いやった上で冷静に見るところが実のところ今よりも本質を捉えている行動のように思えてならないからだ。
そういえば地方の所々にこんな呼び名が残っている。御先稲荷、飯綱、管狐、人狐、野狐・・これはすべて共通を見出せる狐の呼び名なのだそうだ。
それもまた前述の話ではないが、本質に迫っているひとつなのかもしれない。またそれは観察や経験・解釈から起こって蓄積された知識だから、かつての人たちは物事をよく見ていたとも言えそうだ。そこに呪術や祈祷があてがわれたということもまた自然といえば自然の流れだ。
こういう見立てを今のあらゆるものごとに当てはめてみたら、面白い。
いや背景が異なるのでなんでも当てはめるのは、些か違うと思うが、でも何かその方が心地よくしっくりくることが多いのではないか・・

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