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自由について

おはこんばんにちは。

今日は夜軽くランニングするつもりが走っているうちにエキサイトしてきて結局最後は追い込んでしまい、またもや夜に交感神経ビンビンになっている大箭です。

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さて、今回で15投稿目。

先日から「幸福」というテーマについて僕なりの考えていることを述べてきている。

一見物質的にも健康的にも裕福である日本において、2021年の世界幸福度ランキングが低い原因について、

自分でコントロール可能な裁量が大きいこととして、

人生の自由度

が挙がるのではないかと思う。

今日は自由について、僕がいくつか読んだ著書を引用しながら書いていきたいと思う。


良い社会とは?


今僕たちが生きている民主主義社会。その源流は、200年以上も前の、ジャン=ジャック・ルソーやG.W.F.ヘーゲルといった哲学者たちが見出した「よい社会」の本質にある。

それまでの時代、人びとは、ただひたすら戦争を繰り返してきた。

ヨーロッパでは17世紀にトマス・ホッブズ(1588─1679)という哲学者が現れ、戦争をなくすには、みんなの合意の元で最高権力者を作り出し、その人に統治してもらうしかないと言った。

ホッブズの思想から権力者が社会を統治すればひとまず戦争はなくなる。でも、そうすれば大多数の人民は、ただ支配されるだけの自由のない存在になる危険性がある。

そこにヘーゲルが現れ、いったん作り上げられた権力も再び人民によって統治されないといけないと訴えた。

ヘーゲルは、なぜ人間だけが戦争をするのか?この問題をさらに徹底して考え、それは僕たち人間が、「生きたいように生きたい」という欲望、つまり「自由」への欲望を持っているからだと考えた。


民主主義の原点


お互いがお互いに、相手が対等に「自由」な存在であることを認め合うこと。

そのようなルールによって、社会を作っていくこと。

おそらくこれ以外に、僕たちが自由に平和に生きる道はない。

これを「自由の相互承認」の原理と言う。

※参考図書「初めての哲学的思考 筑摩書房 苫野一徳著」


自由の本質


以上から、僕たちが本当の意味で「自由」になりたいのであれば、お互いがお互いに、相手が対等に「自由」な存在であることを認め合うこと。

そしてそのようなルールによって、社会を作っていくこと。

これに尽きるのではないかと思う。


「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学 NHK出版の中で苫野一徳さんは自由の本質について以下のように述べている。

ヘーゲルの哲学から、わたしたちは「自由」の本質を次のように見出した。すなわち、それは「諸規定性における選択・決定可能性」の感度である。
より嚙み砕いていうなら、できるだけ納得して、さらにできるなら満足して、「生きたいように生きられている」という実感のこと、あるいはまた、「我欲する」と「我なしうる」の一致やその可能性の実感のことである。

少し難しい表現ではあるが、

僕なりに簡単に自由の本質について述べると、自由とは特定の" 状態 "なのではなく、僕たちの" 感度 "にあるということ。

すなわち、どんな状態が自由と感じるかどうかは、その人それぞれがどこに規定性をおくかによっても異なるが、そもそも自由と感じる感度がないと自由を感じることができないということだと思う。



結局のところ、日常生活の中にも有難みや生きているという実感を感じられる感度を持っている人はどんな環境にいったとしても、「自由」を感じられるのではないかと思う。

今日もだいぶ長くなってしまったので明日に続くことにする。

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