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父のいない朝

あまり疲れもとれぬまま、2日目の付き添いに出かけた。
義兄が会社帰りに伯母をピックアップしてくれると連絡を受けて、入れ代わりで入ることになった。

受付での検温、体調チェックも慣れてきたものでサクッと済ませ…と、思いきや、体温計を見ると37.8度の表示。
え?…
姉も36.8度くらいで高めだが、それにしても有り得ない数字だ。

義兄との待ち合わせ時間を気にして小走りしたのが良くなかったのか…
慌てて2、3回計り直したが、37.5度よりは低くならない。本来37度までという規定を大きく超えるので、師長さんからも、もしかして生理前ですか?お疲れが出たのかもしれませんね…と心配されたが、熱が下がらなければ明日診察を受けた方がいいかもしれないし、今日は入れませんという結果になった。

一人で夜の付き添いをするとこになった姉を置いて、義兄と伯母と帰ったのだが、本当にいたたまれない気持ちだった。

思えば、空港でも身体がダル重いし、ふらつく感じがあった。しかし、怒涛の帰り支度のせいで、寝不足で疲れてるのだろうで済ませていた。その頃から微熱があったんだ。気にもとめなかった。
初日も37度くらいあったそうで、高めだと思われていたらしい。

面会ができず、実家で待つ宮崎の伯母にも、すみません、申し訳ないです…と詫びたが、父より3つ上で83歳の伯母からは、何のために帰ってきたのか分からんじゃない、しっかりしないと、と言われた。もっとも過ぎてぐうの音も出なかった。

もし発症してるのなら。周りにも大迷惑だし、その後の葬儀にも出れなくなるかもしれない。熱が下がらなければ明日検査を受けなければ…とどん底の精神状態でぐるぐる考えたが、今はまず寝るのが仕事だと、一切を遮断して、すぐベッドに入り滾々と寝た。

朝方までぐっすり寝たが、合間にちょくちょく起きながら熱を計った。熱は次第に下がり、37度から36度後半くらいを行き来するようになった。
熱がなくともコロナ陽性の可能性があるが、近くの発熱外来の情報を調べつつ、一度自分で抗体検査してから受診するか決めようという結論に至った。

付き添いを終えた姉が帰ってくるまでに洗濯や家事を済ませ、一緒に少し早いお昼を食べた。その後に、姉に買ってきてもらった検査キットで検査をした。
姉は疲れているだろうにこちらも気遣ってくれて、大丈夫、コロナにかかった人の話では、もっと高熱だし、そんなにすぐに下がることはない、絶対風邪だって、と励ましてくれた。

唾液を採取し、検査キットと時計の針を交互に睨みながら慎重に時間を測ったが、偽陽性の薄ら反応もなく、きれいな陰性だった。

その頃にはすっかり平熱になり、これなら自宅療養で安心だろうと思ったが、昨日の今日で、熱が下がったからまた病室に入れてくれ、なんて虫のいいことは言えない。
その晩の付き添いも姉一人に頼み、夕方からは姉宅の家事と夕飯作りに専念した。

これは、私がこうなる前からだが…面会枠からあぶれた宮崎の伯母を、どうにかして父と一目会わせられないかと、ことあるごとに看護師さんや先生に相談・お願いしていた。

当初、先生も、父が車いすに座れれば、駐車場まで出て遠目で会わせることはできるかもしれない、と案を出してくれていたが、衰弱が激しく、その案は立ち消えになった。

すきを見ては、患者本人のためにもどうか…と伯母との面会をお願いしていたが、その度に看護師さんらには優しくやんわり上手く断られていた。先生はうーん、と困ったような顔で難しいですね…と悲しそうな顔で濁していたが、遂に折れた。この日の午後、帰宅中の姉に先生から連絡が入る。今、面会人に登録しているどちらかの伯母が面会枠を外れれば、宮崎の伯母にも一度だけ15分の面会を認める許可が下りたのだ。
その代わり、今後一切変更は認めない、との念押し付きだった。

粘って良かった、病院の規則も鬼ではない。
夕方、姉が乗せていき、宮崎の伯母も短いながらも面会を果たせた。
コロナ禍の出だしだったらこうはいかなかっただろうし、本当に有り難かった。

こちらからも、発熱で出入り禁止となった私や、認知症があり、ひとりでは満足な付き添いができない母の登録を外す提案もしたのだが、基本的には面会と付き添いは出来るだけご家族にお願いしたいとのことだった。
恐らく、最期に近づけば近づくほど処置や薬をめぐる許可を取る際、兄妹ではなく家族に判断を仰ぎたいという病院の意向があるようだった。

この頃は、もう付き添いの再開は諦めていたが、病院へのせめてもの安心材料として、抗体キットの結果と平熱に下ったことを姉の口から伝えてもらった。

夕飯や家事を済ませ、ぼけっとしていた21時半頃だろうか。姉から携帯に電話があった。LINEもあるのに病室から電話なんて何の用だろう、まさか…と思ったが、父に使う薬の件だった。

今使っている薬ではきつさと痛みが取れなくなってるので、看護師さんが先生と連絡を取り、子供のてんかんなどに用いる薬を使う許可が出たそう。しかし、この鎮静剤を使うとそのまま意識が戻らない人もいるらしい。
使うのは構わないが、これが最期になる可能性もあるので、来れなかった妹が後悔するかもしれない、その前に一目会えませんかと話したら、熱も下がられたそうだし、来てもらっていいという話になったそうだ。

私は、もうこれが最期になるかもという悲しさと、また会える嬉しさとごちゃまぜな感情になりながら、動転して事故しないよう注意しながら姪の軽自動車を借りて病院に向った。

病室の父は呼吸もかなりゆっくりになりがちで、確かにきつそうに顔を歪めたり、早く早くとおぼろげな言葉も口にしていた。

これは電話口の姉から聞いていたことだが、風呂に入っていないはずなのにとてもキレイで無臭だった3日前に比べて、今日のお父さんは何とも言えない匂いがする、もう死が近い、そういうことだと思う、と。
確かに、牛乳をこぼしたような、甘いような、薄いながらもモワッとむせるような匂いがした。これが死特有の匂いというものなのか、と思った。

薬を入れて効くまで、30分から1時間かかると思うと言われたが、看護師さんはもうこれが最期になるだろうと分かっていたようで、薬を準備してくるまでどうぞ話しかけてあげて下さいと3人にしてくれた。

姉と片方ずつ手を握りながら、

お父さんよく頑張ったね。
見舞いにくるのも遅くてごめんね。
もうすぐ薬を入れてもらえるから大丈夫だよ。
今までありがとう。
じいちゃんやおばあちゃん、(歴代の我が家の愛猫たち)ろくちゃんとはっちゃん、ばなこやきなこ、チョコにもよろしくね。

というような声をかけたが、うまく頭が回らず、嘘みたいに月並みなことしか出てなかった。
ふたりとも、今まさに、命を吹き消されようとしている父との別れが惜しくて。
ポロポロ流れる涙を拭いながら過ごした。

薬は座薬だったが、入れてしばらくすると、父は表情が和らぎ、すとんと深い眠りに落ちたようだった。
随分ゆっくりと、時折不規則になった寝息をたてていたが、何かに反応して意識が戻りかけたのか、弱々しく腕を上げたりしたが、姉と私は離れたベッドで互いにアイコンタクトをとっただけで、もう手を握ったりはしなかった。

もうこの頃は、自然の流れで逝かせてやろうという気持ちでいた。音や刺激を与えてしまうと、また覚醒して苦しみが長引くだけだ、と覚悟を決めて見守っていた。

姉は徹夜続きでほとんど目をつぶり、入口の方のベッドで眠っていたが、音は聞いていたそうだ。
1時台、2時台と看護師さんの1時間おきの見廻りも、ドアから少し入ったところで、じっと父の様子を見やっていたので、お互いお辞儀だけで済ませた。一度、痰のひっかかりで呼吸が止まった時は、少し驚き、ナースコールを押してしまったが、吸引してももう表情は変わらず、ぐっと力が入れる腕もあまり力も入れずに静止できたので、あぁ、本当に意識がなくなったのだなと思った。

4時台終わりの見廻りの時は、さすがに私も寝落ちしていて、看護師さんに優しく肩をトントンされて起きた。

「もう息が止まられてますがよ」

いつ止まったのか。
父の呼吸が完全に停止するその瞬間、ふたりとも寝入っていて気づかなかった。
ごめん、お父さん。

その瞬間は見届けなかったものの、娘らに囲まれて寂しくはなかったはず、だ。
父にとって、それで良かったんだ。

そう思いたかったが、驚きと悲しみと悔しさで自分まで消え入りそうだった。

こうして、5月25日水曜の明け方、父は眠ったまま亡くなった。
私たち姉妹は、初めて父のいない朝を迎えた。

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