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日本人が知らない日本誕生の真相④ 仏教による中央集権化戦略


倭王の課題は地方氏族の統合

倭国では様々の氏族が割拠し、それらの氏族を緩やかに束ねる王が列島各地に存在しており、それらの王たちの盟主である「やまと王」が畿内におりました。

私のイメージでは天下統一後の豊臣政権に近いかと思います。
5世紀の雄略天皇の頃が、倭国の拡張主義の限界に達した時代です。

この天皇のあと、倭国王権は内向きになっていき、6世紀に継体天皇が出現する頃には半島での直接統治の情熱をほぼ失ってしまったようです。

7世紀になると、隋帝国に対抗して倭国の政治体制をより強固にする必要から、地方政権や氏族から権力を奪って倭王権が直接統治する必要に迫られました。

そんな時期に日本書紀で厩戸皇子と呼ばれている「やまと」の王族が倭国連合の指導層に登場しました。

彼が推古女帝の摂政であったのか、倭王だったのはわかりません。実質的には蘇我馬子が政治を主導していた可能性が高いと思われます。

この列島では、古来から各地の氏族が各々祀る神々がいて、いつ頃からか、祖先を大切な神として崇めるようになりました。

祖先を崇めることは、祖先から受け継いだ地位や伝統を持続させる欲求と裏腹です。
祖先を祀る最大の祭祀場所が古墳だと考えていますがどうでしょう。

古墳時代ですから、地方民は地方権力の象徴である古墳を毎日眺めながら生活しています。

古墳システムの解消

古墳時代では、倭王の古墳が最も大きく、倭王以外の権力者の古墳の大きさもその地位の高さに応じて決まるという仕組みがあり、権力者たちは古墳の形や大きさによって自身の権力を誇示していました。

江戸時代の大名がおおむね保有石高に相応した規模の城を築城することで大名としての地位を誇示していたのと似たようなものでしょう。

なお、古墳の大きさは5世紀前半ごろが最も大きく、この頃は吉備(岡山県)でも巨大古墳が造られました。地方にも有力な王権が存在していたのです。

その後は全体的に古墳が徐々に小さくなっていきました。
国内の国土開発がピークを迎え、半島への軍拡も限界が見えてきたことで、量より質を重視する傾向が強まっていったのではないかと思います。

バブル崩壊後の虚無感のようなものが5世紀末には漂い出していたような気もします。

それでも、古墳の存在感は倭王権が地方権力を統合するうえでは邪魔な存在となります。

民が日々見ている風景の中に常に古墳がある状態では、彼らにとっての主人は古墳の主、またはその子孫です。

地方民にとっての倭王は外国の偉い人であって、そんな倭王に従おうという気分にはなれません。
かといって、古墳をなくすこともできません。

仏教による新たな支配秩序

少しずつでもいいから穏やかに倭王の偉大さを地方に浸透させたい。

そんなとき、東アジアで広まりつつあった仏教を倭王が率先して広めたらどうなるでしょう。

仏をこの世界における唯一絶対の存在としてしまえば、地方の神や祖先神を仏より格下の存在にすることができ、同時に倭王が仏教の擁護者として最上位の立場を確立できます。

そのためには圧倒的にきらびやかな寺院を立てて、その迫力を見せつけるのが一番です。

倭王権は7世紀が近づくと、四天王寺など地方豪族が真似できない、きらびやかな巨大寺院を建設しました。

五重塔の荘厳さと建築技術とその社会的機能に比べ、古墳は大きいだけで野暮でなんの役にも立ちません。

神より仏にすがる方がより現実的で利便性も高いしかっこいい。そんな価値観が社会全体に広がってゆきました。

仏教は半島に近い九州からではなく、倭王権の中枢である畿内を中心として普及してゆきました。

寺院の社会的機能とは?

寺院には様々なメリットがあります。一つは「読み書き文化」の普及です。

経典を読むには漢字、つまり外国語の学習が必要ですが、この時代の倭人の多くは漢字をよく知りません。

しかし、寺院では経典を、つまり外国語を教えてくれるわけです。
寺院に行けば経典を通じて読み書きができるようになり、国際感覚も身につき、異言語コミュニケーション能力も高まります。

倭国の文書も漢字で表記されますから、漢字の読み書きができるようになった人材は優秀な役人として倭王からヘッドハンティングされ、出世の道が開かれます。

明治時代に英語やフランス語を学んだ渋沢栄一みたいな人が政府高官になったのと同じで、低い身分の出身でも、寺院で最先端の知識を身に着けると、倭王権に属する役人として自然とエラくなります。

こうして6世紀の倭王権は何世代かに渡って、紆余曲折はありながらも半島国家から仏僧を招聘し、経典を輸入し、寺院を作らせるなどして徐々に仏教の普及を推進しました。

伝統と血統で地位を受け継いできた氏族たちにとって、この変化はその地位を脅かすことになりますから、負けじと子弟を寺院に派遣して勉強させ、そこで倭王を中心とする新国家主義の思想を学ばされることになります。

こうして仏教の普及を通じて新しい秩序が生まれてゆきました。
外交権を独占して仏教導入を推進する倭王と、倭王を補佐する優秀な官僚集団が形成され、倭王権は氏族権力に対して徐々に優位に立ってゆきます。

仏教の擁護者とされる厩戸皇子は、新しい倭国の象徴として若い官僚群の希望の星に見えたかもしれません。

蘇我氏の台頭

7世紀初頭には、倭王権を国家元首とした国家制度の整備が推進され、憲法が作られました。

氏族という集団ではなく個人を評価する冠位十二階という人事評価制度も生まれました。

こうなると、優秀な人材ほど地方政府よりも倭国政権のために働くという気運が広がります。

ここに至る過程では蘇我氏が急速に台頭していました。蘇我氏こそ仏教の先駆者であり、新しい中央集権国家体制の脚本家でもありました。

そして厩戸皇子は蘇我氏の血を受け、蘇我氏に支持されていました。

しかし、仏教が普及する過程では、この変化に反発する勢力もありました。

その筆頭が物部氏です。物部氏は饒速日(ニギハヤヒ)という祖先神を持ち、倭王権が「やまと」にやってくる前の時代に「やまとの王家」だったかもしれないほどの古い伝統と格式を持った氏族です。

行政トップが真の権力者になる時代

物部氏もさすがに時代の流れ、つまり仏教を土台とした新国家主義を否定しようとまでは思わなかったでしょう。

しかし、その機運に乗じて倭国を事実上乗っ取るかのような勢いを示す蘇我氏に対して警戒感を抱きました。

新しい倭王権というのは、優秀な役人が法にもとづいて国家を運営する体制です。
これは中華王朝の律令制をもとにイメージされた国家体制でしょう。

倭王は神聖権力として君臨し、倭王を補佐する行政組織が国家を運営する。その行政組織のトップは事実上、倭王以上の権力を持ちえます。

その行政トップの地位を蘇我氏に取られたら、物部氏などの古い氏族は地位と栄光を奪われ、蘇我氏を上司として仰ぎみる立場に転げ落ちてしまいます。

古い氏族達にとっては、どうせ頭を下げるなら、相手は蘇我氏より物部氏であった方が自尊心が傷つかずに済むでしょう。

物部氏はとても興味深い氏族なので、次回に詳しく触れたいと思います。


ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。 <(_ _)>