【体重17㎏の私】精神科入院1年を経て得た「辞めて幸せになった4つのこと」と飽食の時代に『餓死』しかけた過去~ASD+精神疾患と診断されるまで~
#創作大賞2024
#エッセイ部門
これまでの様子は上記記事から↑(下の記事は中学時代のトラブルを語っているが、小学生の時も同じようなことがあったのでご参考までに)
完璧主義だった私
なんとなく生きづらさや体調不良を抱えつつも環境や人間関係に恵まれていたお陰で、他の人と同じような生活を送ってきた私の小学校時代。
真面目で穏やかで誰にでも分け隔てなく優しい。
成績も良く、正義感も強くいじめの仲裁にも入る。
完璧主義で掃除の時間すら手を抜かないしっかり者の優等生ー。
そんな人間を背伸びして演じてきた。
運動は軒並みダメだったり時折、人間関係でトラブルを起こしたりと欠点が見える瞬間もあったが、周囲からの評価が揺らぐことはなかった。
却って欠点があったおかげで羨望からのいじめに遭わずに済んだのかもしれない。
内気でコミュ障だった割にはほとんどのクラスメートからは慕われていて、親友と呼べる友達も1人はいたし、成績が良く真面目で従順な性質は先生たちからのウケも良かった。(ただし体育の先生だけにはよく思われなかった。)
多くの人から能力や人間性を評価され、注目される学校は楽しかった。
「模範生」と表彰されたことを始め、校内外でいくつもの賞を受賞し、自分の存在が、そしてその人生が誇らしかった。
毎日が輝いて見えた。
発達障害がもたらす生きづらさや本当の自分との乖離からしんどくなることもあったけれど、それでも楽しさや充足感が勝っていた。
ずっとこの人生が続くと思ってた。
良い高校に行って、良い大学に行って、良い会社に就職する。
何の疑問もなくそう思っていた。
それなのに、何一つ叶わなかった。
それどころではなくなった。
これは飽食の時代に餓死しかけたASD+精神疾患と診断されるまでの私の話しー。
そして生きづらさや挫折に苦しむ全ての人に送る私の暗い過去を赤裸々に綴ったエッセイ。
人生一の「挫折」とそこから学んだ「私の生き方」を当時の自分に想いを馳せながら綴っていく。
*長文になりますが、どうか最後までお読み頂けたら心の底から嬉しく思います*
壊れていく
小4のとき、私はあるできごとをきっかけに食事や水分が摂れなくなった。
食べようと思っても食べられない。
水分すら喉を通らない。
そんな状態が続いて、体重は17㎏にまで減少し(小4女子の平均体重は35㎏前後)起き上がることも歩くこともままならなくなり、大事な青春の1年間を病院で過ごす羽目になった。
食事が摂れなくなった原因はとある飲食店での出来事がきっかけだった。
とある飲食店に家族と昼食を食べに行ったのだが、信じられないことに提供されたスープに「人の歯」が混入していた。
当時の私は「見間違いじゃないか。」とか「自分の歯が抜けたのか。」と思い何度も自分の口腔内とその異物を確認したが、それは紛れもなく他人の歯だった。
当時は強いショックを受け誰にも言うことが出来なかったが、たまたまだと思いどうにか忘れようと試みた。
それからその出来事を忘れかけていた約8か月後に、再びその店舗へ食事に行った日のこと。
その日提供された食事は変な苦味と臭いがある気がして不審に思ったが、一緒に行った家族は気にした素振りもなく、黙々と食べていたので私はお腹が空いていたこともあり完食してしまった。
後からこの過ちを後悔することになる。
その2日後、その店舗で食事をした私と家族は激しい嘔吐と40度近い高熱に見舞われた。
後から聞いた話しによるとその日、同じ店舗で食事をした多くのお客さんが食中毒を発症し、集団食中毒が起こっていたようだった。
私と家族は幸い入院するなど大事には至らず1週間ほどで症状は軽快したが、当時は胃袋が腐っていくような強い嘔気と呼吸さえ妨げられる激しい嘔吐に強い恐怖を覚え、「もう2度とこんな思いしたくない。」と強く思った事が今でも記憶に色濃く残っている。
それから不思議なことが起こった。
強い吐き気や嘔吐と言った症状は1週間ほどで完治したにも関わらず、その後1ヶ月がたっても食欲不審や胃がムカムカすることに加え、食中毒を発症した日の記憶がフラッシュバックする症状が消えなかった。
また食中毒になったらどうしよう。
上記の症状やそんな思いから食が進まなかったり、浴室やトイレなどといった嘔吐した場所に行くことがとても怖くて、自分でも少し違和感を覚えたものの、「まあ、こんなものかな。」と思い直し、内科で処方してもらった胃薬を飲み様子を見ていた。
けれど見る見る間に体調は悪化し、食事があまり摂れない、体重減少、軽い運動で激しい動悸がする、吐き気、倦怠感などの身体的症状が出たことや、食中毒を発症した曜日、時間にまでも極度の恐怖を抱くようになったことから、学校を休みがちになる、入浴ができないなど生活にも支障をきたすようになった。
もう一度同じ内科に行き、症状を話し簡単な検査を受けたが「大きな異常もないしよく分からない」との事でとある総合病院の小児科を紹介してもらったものの、やはりそこでも大きな異常は見つからず、栄養失調と脱水を指摘されただけだった。
この日から2か月間、毎日、ここの小児科に通院することになる。
最初は『胃の調子が悪いから』『また食中毒になることが怖いから』と控えていた食事だったが、体重が20㎏を切り、身体中の骨が浮き出て手足は枯れ枝のように細くなってからやっと、「これは四の五の言っている場合ではない」と食べることに本気になったのだが、どんな食べ物も『フルマラソンを終えて出された油ギトギトのとんかつ』みたいにしか感じられず、気持ち悪くてほとんど食べることができなかった。
多分、体力が極度に低下したせいで身体が食料を受け付けなくなっていたのだと思う。
その後寝たきりになり、餓死しかけるまではあっという間だった。
お腹は空いているのに食べられない。
乾いた喉に水すら通らない。
学校に行くことはおろか家から出られない。
入浴ができない。
好きだったテレビも見られない。
起き上がれない。
そして数メートル先のトイレにすら歩いて行くことができなくなったー。
急斜面を転げ落ちるかのように日に日に体調は悪化し、絶望だけが膨らんでいく毎日。
言うことを聞かない身体を家族に支えられながら小児科に行っても、何も変わらなかった。
はやく治さなきゃ、早く学校に行けるようにならないと。
そんな焦りとは裏腹に体調と精神状態は悪化していき、布団に沈み込んでいくかのような全身倦怠感と疲労感、何一つ手に付かないほどの気持ち悪さ、そして何度もフラッシュバックするあの日の恐怖と苦痛を抱えて生きる毎日だった。
身体が辛く横になっていたいのに、不安や恐怖からじっとしていることができずふらふらとゾンビのように寝室を歩き続けた。
「もういやだよ。」
そんな風に泣き言を零した私を見て両親が泣いた。
初めてみた両親の涙だった。
それまで気丈に振舞ってきた両親の気持ちを考えたことすらなかった。
自分のことしか考えられず簡単に泣き言を零した自分を恥じた。
人生初めて、家族3人で寄り添って泣いた。
それからも変わらず、毎日、毎日、家族は懸命に看病をしてくれた。
治る兆しなんて見えやしないのに「もしかしたらもうすぐ治るかもよ。」
なんて母は寝たきりになった私によく言った。
そんな母の言葉が、胸に突き刺さって痛かった。
原因不明の症状に悩み、戸惑い”もう治らないのかもしれない”と思っていたのは母も同じだっただろうに、無理に明るく振舞うその姿を見るのが辛かった。
胸が締め付けられるように苦しくて、鼻の奥がツンとした。
私は込み上げてくるものを堪え切られなかった。
その後、小児科にて体調や精神状態の悪化などを伝えると他の病院の児童精神科を紹介してくれた。
「先生なんかよりもいい先生を紹介するからね。」
そう、悲しそうに言った小児科の先生の表情は10年以上経った今でもはっきり覚えている。
家族とお世話になった先生を悲しませてしまったことが子供ながらに申し訳なくて、自分が情けなく思えた。
言うことを聞かない身体が憎かった。
”先生なんか”なんて言わないで。
いろいろな病院で診てもらったけれど、先生が一番私に寄り添ってくれていたよ。
過去に戻ることができるのなら、そうあの時の先生に伝えたい。
紹介された児童精神科に行くと
適応障害、不安障害などの複数の精神疾患、それからASD(自閉症スペクトラム)と診断された。
その時の心境はというと「病気」だったんだということが分かって少し安心していた。病気なら何か良い治療法があるだろうと思ったからだ。
発達障害と診断されたことについてもびっくりはしたけれど、だから「生きづらかったんだ」、だから「他の人と違う悩みがあったんだ」となんだか府に落ちた。
でもここの精神科の先生は淡々としていてこちらとしては機械と話をしているような心地になり、心細かった。
それに抗うつ薬を処方されて2か月ほど服用しても全く効果は出ず、先生に相談しても「効いてないみたいですね。」と言われるだけ。
効果がないにも関わらず薬は変わらないし、待ち時間は長いし、症状は悪化の一途だし、正直、通院する意味は感じられず病院から帰ってくると毎回、ひどい疲れから死んだように眠った。
そしてまた、朝が来て、昼が来て、夜が来る。
私は何もできない。
床ずれを量産し、ただ死体みたいに眠るだけ。
周りから賞賛される輝かしい日々から一転した生活と自分がなんとも惨めだった。
こんな骨と皮だけの、勉強にも取り組めず、友達に会いにいくことすら叶わない、あの褒め称えられる日々から一変した生活と自分に価値を見出せなかった。
だから人生初めての挫折に絶望した。
どんどんと際限なく堕ちていってしまうような感覚が怖かった。
一筋の希望すら見えなくて、楽しそうに笑いながら外を駆け回る近所の子供の声がやたらと癇に障った。
入院
そんなどうしよもない日々が続いたとある深夜、いつもとは違う強い吐き気に見舞われ、親に精神科に連絡してもらうと電話口で先生は「脱水症状」の疑いがあると言った。
私は不安定な精神状態による強い恐怖心から病院に行くことを抵抗したが、あっさり両親によって病院に連行され、そのまま入院する羽目になった。
入院前の診察にて先生が何やらいろいろと説明していたが、脱水と栄養失調で朦朧とする頭では理解することが出来ず、適当に相槌を打っていて気づいたらいつのまにか入院に同意したことになっていた。
そして、深く考える間もなくあっという間に車椅子で病室まで連れ行かれ、書類にサインをさせられ、1年もの長期に及ぶ入院生活はここから始まる。
入院した直後は、生活も症状も治療法も特に変わったことはなく1日中続く吐き気と倦怠感のせいで、車椅子を使用してもトイレに行くことがやっとで1日中眠って過ごした。
食事も相変わらずほとんど摂れなかった。
「せめて、水分だけでも摂るように」と言われ、頑張って飲んだけれどこれも吐き気のせいで、1日にコップ1杯の水分を摂ることが精一杯だった。
環境の変化のせいか入院してから夜も眠れなくなり、やたらと強い睡眠薬を飲まされ、その薬を飲むと気絶したかのような感覚がした。
毎回、飲んだ後の記憶がなく、気づいたら朝になっているのだ。
時間がワープしたみたいで初めて飲んだ時はその感覚にひどく混乱し、目を覚ました翌朝、「どういうことですか?」と検温に来た看護師さんに聞いたことをよく覚えている。
入院して1か月が経っても症状は良くならずそれどころか悪化していき、体重の減少は食い止められなかった。
この時10歳にして体重は17㎏。
ここまでの低体重であったのにも関わらず、不思議な事にこの時は自分が危ない状態にあることの自覚が一切なかった。
主治医の判断で「経鼻経管栄養」の治療を1か月間受けることになる。
あまり思い出したくもないけれど、この治療を受けている間の苦痛は10年以上経った今でも鮮明に覚えている。
処置を受けて1週間は違和感や痛みから話すこともできなかった。
そして管を抜くまでの1か月間ー。
24時間、ひどい嘔気が続いた。
それに、誤飲の危険性があることから飲食は固く禁じられていたせいで水を飲めず喉の渇きがひどかったことも辛かった。
看護師さんにはうがいをするように勧められたが、水を飲みたい欲求は全く収まらず、流れる水を見て却って辛くなった。
夜寝ようと目を瞑っても、その視界に”蛇口から滔々と流れる水”が現れて気が狂いそうになった。
一瞬一瞬が苦痛で、また今日と同じ苦しい明日が来るのが怖くて夜はなかなか寝付けなかった。
最初の頃は睡眠薬を投与されることが嫌で、なんとか薬を飲んで寝てもらいたい看護師さんとの攻防の日々だったけれど、そのうち慣れるどころか依存するようになったせいで、あまり出してもらえなくなった。
沈殿した粉末を溶かす為に、看護師さんが投与直前にシリンジを指で弾く瞬間がとても好きだった。
シリンジを「パチッ、パチッ。」と指で弾く音とシリンジの薬液内でふわっと粉末が舞い上がる光景は今も私のすぐそばにいる。
最初は散々、薬を勧められたのにあるときから急に投与を控えられたものだから、飢えや喉の渇き、不眠などの影響で極限状態にあった私は興奮して珍しく声を荒げた。
「だからあの時、飲みたくないって言ったんだ。」
血眼になってそう吐き捨てた私を見ても看護師さんと先生は顔色ひとつに変えなくて、その態度が癪に障った。
初めて治療者を憎んだ。
とある日の夕暮れ時、病室の窓から手を繋いで飛び跳ねながら歩く小さな女の子とその母親の姿が見えた。
私を担当していた看護師さんが同僚と談笑しながら帰っていく後ろ姿も見えた。
みんな楽しそうなのになんで私だけ、1人、こんな狭い病室で苦しい毎日を送っているんだろう。
夕陽に向かって小さくなっていく親子と看護師さんたちの後ろ姿を見て、私は1人ベッドの上で泣いた。
その日、その時、その涙は誰にも気づかれなかった。
体調不良のせいでできることが限りなく少なかった私は毎日毎日、ベッドの上から空を見ていた。
こんなにも青い、抜けるような空が広がっているのに、心1つが晴れないままだ。
あの日からずっとー。
筋肉も脂肪もこそげ落ち骸骨のように細くなった腕を掲げて、真っ白な雲の輪郭を指でなぞった。
やたらと窓の外が眩しかった。
それからちょううど3週間経った日。
管が抜去された。
私は管が抜かれた違和感や精神疾患から来る吐き気に悩まされる中、「もう2度とあんな治療は受けたくない」と死に物狂いで出された食事を食べた。
作業だと思うようにして、なるべく自分の身体や吐き気に意識を向けないようにした。
「次の食事、食べられるかな・・・。」
「もし体重が減ってまたあの治療を受けることになったらどうしよう。」
1日中、食事と体重測定のことが頭から離れなくて次の食事のことを考えるだけでひどく憂鬱で、狭い個室で1人、病気と向き合うことがただただ辛かった。
そんな日々が続いた1か月半後、相部屋に空きが出たとのことでそちらに移った。
ずっと個室で孤独が辛かったからとても嬉しかった。
(両親も金銭面で嬉しかったと思う。)
そこの病室は様々な年齢や症状を抱えた患者さんがいて、内気な私はなかなか話しかけられなかったけれど、同じ境遇の「仲間」がいることは心強かった。
1人じゃないって思えて、なんだか希望が持てたし、相部屋に移ってからは訳もない不安感や恐怖感が和らぎフラッシュバックも減り、少しづつ体調も良くなり回復の兆しを見せ始める。
相部屋に移って1か月もするとだいぶ打ち解けてきて話しをしたり、一緒にゲームをしたりと交流も増えた。
だが、それでも外出やシャワーの許可すら簡単には下りない入院生活は息が詰まり、消灯後にこっそり病室の子と部屋を抜け出してたわいもない話しをしたり、病院から抜け出す計画を立てたりすることでどうにか精神の安定を保っていた。
話しをしたり励まし合ったりして時間を共有していくうちに、そんな計画を企てるまでに「仲間」との絆は深まっていき、どうでも良いことで笑い合ったり、廊下に座り込んでくだらない話しをしたり、病院から抜け出す計画が看護師さんにバレて叱られてたりといった、たわいのない日々が私にとってはかけがえのないものになっていったー。
退院の日に思った事と挫折を経て学んだ私の「生き方」
入院してから約1年後に迎えた退院日。
やっとこ目標体重に達したことと体調や精神状態が落ち着いたことから退院許可が下りたのであった。
この時初めて「ああ、17㎏ってけっこう危なかったんだなぁ。」と命の危機に瀕していたことに気がついた。
看護師さんや同室の患者さんたちに見送られて、迎えにきた両親と共に病院を後にする。
別れはかなりあっさりしていて何だか拍子抜けだった。
意外にも退院できたことへの喜びはなくて、「もっと病院で過ごしたかったな」なんて思いながら車に揺られていた。
退院後、トラウマはまだまだ残っていたが、日に日に体重は増えていき、急性期のような体調や精神の不安定さもなくなり、少しづつ外出や通学ができるようになっていった。
これでまたやり直せる。
そう思ったのだけれど、どうも体調が安定しない。
最初は退院したばかりで本調子ではないせいだと思っていたが、それから10年以上体調が思わしくないまま『ASD+不安障害引きニートnoter』誕生の今に至る。
まあ、なんやかんやあったけれど今はけっこう幸せだ。
不安障害以外の精神疾患は完治したし、トラウマもだいぶ癒えてきて好きな物を食べれるようにもなってきた。
なにより以下4つのことをしたら楽に生きられるになった。
無理をすることを辞めた
みんなにいい顔をして、自分を着飾ることを辞めた
完璧主義を辞めた
逆境に抗うことを辞めた
これが精神疾患に罹患するという「挫折」体験を経て気づいた辞めて幸せになった4つのことだ。
そして「ありのままを受け入れ、ほどほどに生きる」ことをモットーに、何事も70%くらいを目指して取り組んでみたら、苦しくならないし、私にはそんな生き方がちょうど良かった。
この挫折がなければ例え上記のことに気づいたとしても、何かを失うことが怖くて「完璧な自分」を何一つ崩すことが出来なかったと思う。
今、入院生活で出会った患者さんの中で連絡を取っているのは1人だけだし、仲間不足から孤独感に苛まれることもあるけれど、noteという居場所もでき、馴染みのフォロワーさんもできた。
noteを始めてから私生活の方でも自分の「スキ」を大切にし続けてきたら、少しづつ、本当に少しずつだけれど理解者と居場所が増えて行った。
当時、思い描いていた未来とは全然違うし、空っぽな自分がいるだけだけれど、私はそんな自分にも価値があると信じている。
能力やステータス、それから他人との比較では得られない絶対的な価値が自分にあると信じること。
それが暗い過去をも含めた自分の全てを肯定して前を向く唯一の方法だと私は考えている。
長文を最後までお読みいただきありがとうございました。
そして以下の自己紹介へと繋がっていきます。
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