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短編『電車にて』

【大学の事前学習の課題】
 原稿用紙10枚程度(本来は20枚。短編二作という選択)
 駄文になったので、提出せず。

 嫌な臭いがした、気がした。
そう思った瞬間に感じなくなった。今の臭いはいったい何だったのだろう。
人は向かいの席の両端にいるだけだ。ああ、そういえば、いつもの楽器を背負った女子高生はどうしたのだろう。いつもに増して少ない乗客と嫌な臭いは何か関係があるのだろうか。酔っ払いがいるわけでもないし、そういう臭いでもなかった。あの女の子はただ、今日は朝練がないだけか。六時半の電車に乗っている学生は部活の朝練か受験生だろう。とはいえ、僕はそのどちらでもないのだけれど。
 高校生になってはじめて気づいたのだが、僕は人混みが苦手らしい。教室なら大丈夫なのだが、電車という公共の場で大勢の人間とすし詰めになるというものが吐き気がする。初めのころは、人並みに学校に八時につく電車に乗っていた。一週間たって、何本か電車をずらせば、そして、一番後ろの車両なら人が少ないことを発見した。
 人の体臭に不愉快を感じなくてよいことは何よりの救いだ。
なのに。また、何かの臭いがした。なんの防御もできないだろうが、カバンからマスクを取り出した。眼鏡が曇るから好きではないが、あの臭いから気をそらしたかった。
 マスクの上の部分を折ると曇らなくなるんだっけな。
 そんなことを思い出して、やってみるが効果がいまいちはっきりしない。だいたいそんなものだ。耳も痛くなる。
 そういえば、今日は図書館で予約していた本が届くはずだ。なら、今読んでるこの本を読み終わっとくべきだろう。四分の三ほど読み進んでいる小説を取り出した。
 そうだ、今主人公があの家から抜け出たところだ。一瞬でわくわく感がよみがえる。
 五ページ進んだころ、ふくらはぎが熱くて痛くなり集中が切れた。冬場の電車のヒーターは何故こんなにも過剰なのだろう。そりゃ寒いからありがたいと思う気持ちはある。しかし、座っていると焼けるように熱く感じる。ズボンでこれなのだから、生足女子高生など痛くてかなわないだろう。
そして、やはり北野も耐え難かった。足を伸ばした。そのとき、妙な何かがふくらはぎに触れた気がした。
 ちょっとした低温火傷のような状態から解放された感覚が違和感として残ったのか。
 いや、そういえば、さっきからあの臭いが、する。あの嫌な臭い。
 濡れた犬。
 目の前が一瞬、白くなった。ほんの一瞬。
 ああ嫌だ。誰かが犬を拭いたタオルでも持っているのか。そんなものを持っていて、何食わぬ顔でよく電車に乗っていられるものだ。そんなことをするようなマナーのなってない人がいたか。さっきより強くなったように感じる。
 北野はひとつ前の車両に移った。
「ああ、嫌だ」
 鼻腔にまだあの臭いがこびりついている。空気が吸いたい。新鮮な空気が。でも、この電車はあと十分止まらない。
 まだあの臭いがする。また目の前にあれがよぎる。

 一年前。
 北野は、学校から帰ってすぐ犬の散歩に出た。ジャックは白い部分の多いビーグルで、家族の中で北野に一番なついていた。いや、北野自身がジャックに一番なついていた。
 その日は、学校集会で弟の永太が表彰されてた。それでなんとなくむしゃくしゃしていた。水を抱え込んだ重そうな雲も気にかけず歩き出していた。
「なんであいつばっかり。いけすかねえんだよ。俺だって頑張ってたのにさぁ、なあジャック」
 そう問いかけても答えはくれないが、こちらを見上げて慰めてくれる。永太よりきっとジャックのほうが賢いに決まっている。
坂道を登りきらないとき、とうとう雨が降り出した。いつもなら犬用のレインコートに身を包むジャックは過剰に反応して走り出した。少し雨に打たれるのも良かったけれど、ジャックに連れられ、神社の小さい小屋に入った。カバンの中に入っていたタオルで拭いてやる。
へぇへぇと舌を出したまま呼吸をしている少し間抜けな顔は、それでも知的であった。
「痴漢を捕まえたからなんだって言うんだよ。俺だって、そんな場面があったら助けるに決まってんじゃん。たまたまのくせによ」
 あのへらへらした顔が目に浮かぶ。小学生の頃は仲が良かった。勉強を教えてあげたし、運動だって北野のほうが得意だった。
だけど、中学に入ってから何故か。何故か、永太が褒められ始めた。高校入試も北野は同じ高校の特進は落ちて、普通科になったのに、永太は特進に進んだ。模試の結果は北野のほうがよかったというのに、どうしてこうなったのか。
「くっそ、俺だって……俺だってやるよ。なんだよ、あいつばっかうまくいきやがって。俺も誰かを助けてヒーロー扱いされてえよ。機会がないだけだよっ」
 雨にかき消されたくなくて声を荒げた。ジャックは小屋の中をうろうろしている。ただの小屋かと思っていたが小さいお社があった。
「神様あいつばっかじゃなくて俺にもいいことくれよ。表彰されたりなんかに優勝したり!俺ばっか痛い目会うなんて間違ってんじゃんか!」
 雨がさっきより強くなっていた。自分が出した声による振動はほぼなくなって、無に帰った小屋でもうしばらく時間をつぶすことになるだろう。
そう思った時だった。雷がどこかに落ちた。少し近かったように思った。目の端で白いものが走っていくのが見えた。
「ジャックっ!」
 雨が嫌いなジャックが、雷が鳴ると布団にもぐりこむようなジャックが、走り去っていく。気が動転したのだろうか、いつもより速い。
すぐに追いかけたつもりが、ジャックの姿はもうなかった。雨は着実に強くなっている。名前を呼んでもどこからの返答がない。
五時のチャイムが鳴る。単調な「ふるさと」のメロディは、少しずれながら市内のいくつもあるスピーカーから流れる。この音楽を聴くのが小学生の時嫌いだった。もっと遊びたいのに終わりを告げるから。不穏な空気にのまれそうになる。
ジャックが行きそうな場所を探し回った。もちろん、行きそうにないところも、いつぶりかの全力疾走で見に行った。
それでもどこにもいない。神社の裏山に迷い込んだのだろうか。またあの坂道を上った。
薄暗くなった神社は頼りなさそうに見えた。手入れがされているのかどうかもわからない山は闇に続くように思えた。少し躊躇ったとき、目の端で白いものを捉えた。
さっきまで雨宿りをしていた小屋の前だった。白いジャックが雨に打たれていた。声をかけても、動かなかった。半開きの口からピンクの舌が見える。眠っているようだった。ジャックの体を雨が覆う。

前の車両に移っても、移っても、あの臭いが消えない。次第に人が多くなっていく。貫通扉を開けるたびに睨まれた。一番前の車両は満員電車一歩手前であった。
電車が大きく揺れた。思ってもいないタイミング、乗客はバランスを崩した。どこかで、すみません、と言葉が交わされていた。
こんなに人がいるのにあの臭いには気づかないのか。誰も気にしていないのか。俺がおかしくなっただけなのか。そう思ったとき、さっきより一段と臭いが強くなった。吐き気がする。車掌室の前まで行こうとしたら、舌打ちが聞こえた。パッとその人の顔を見ようとしたとき、目の端で白いものが動いた。
フラッシュバック。
そちらに目を向けると、網棚の上にいた。白い、キツネ。
それは北野をじっと見ていたかと思えば、ふわっと優雅に、だけど素早く北野を通り抜けて車掌室を抜けた。
バッと振り返った車掌室で、白いキツネは顔を動かした。北野には笑ったように見えた。
そして、すぐにキツネはどこかに消えた。
車掌室に駆け寄るがそこには何もない。舌打ちが北野に向けて鳴らされていたが、もう北野の耳には届いていなかった。今のはいったい何なのか。幻覚にしてははっきりしていた。
頭の中で色々な疑問が浮かび、答えも出ずに消えていった。さっきのものの証拠になるものはないか、ともう一度車掌室を見渡した。
その時、車掌の帽子が落ちた。車掌の頭から。それを彼は拾わない。
窓を叩いた。声をかけても届いていないようだった。
「おいっ!大丈夫ですか?!おいっ!」
 周りの人が気が付いたようでざわつき始めた。車掌の真っ青になった手が見えている。気を失っている、もしくは病気か。壁の右上にあった緊急停止ボタンを押した。
一秒ほど何も反応がなかった。車掌室の動かない車掌の前でボタンが光っているのが見えた。これでは意味がないのでは、と思ったとき、スピーカーから「どうしましたか?」と声が聞こえた。
「車掌さんの意識がないです」
 そう伝えてからあまり記憶がない。車内はパニック状態になっていた。電車が停止されて、車掌は運ばれていったはずだ。その日は、いろんな人に事情を聴かれてたから、学校には行けなかった。家についてすぐにベッドで寝た。
次の日、いつも通りの電車に乗って学校に向かった。昨日あんなことがあったのに、もうしっかり電車は動いてくれる。乗客はいつものメンツが揃っていた。今日は朝練があるのか楽器を背負った少女は本を読んでいた。昨日の騒動のことをみんなどう思っているのか。気にしたって仕事にはいかなければならないのだろうか。
あの臭いはもうしなかった。
あのキツネはいったい何だったのだろう。濡れた犬の臭いは、あのキツネからだったのか。何も分からなかった。
 月初め、今日は朝から学校集会がある。きっと北野は表彰される。これでやっと永太に並んだ。
そういえば。キツネは願いをかなえてくれるんじゃなかったか。稲荷神社ってキツネを祀っていたはずだ。
スマホという文明の利器によって、北野にもたらされた情報は二つ。一つは、稲荷神社は普通の神社と一緒に建てられていること。もう一つは、神様と違いキツネは願いをかなえてくれる、けれど、お供え物を多く求めるということだった。
そして思い出す。神社でのあの出来事。雨宿りした小屋が稲荷神社だったと考える。そしたら、
繋がってしまうのだ。北野が言った表彰されたいという願い事をキツネ様が聞きいれた。その前払いとして、ジャックは連れていかれてしまったのではないか。
そんなことを考えてしまう自分にぞっとした。神様なんて信じていない。あれが稲荷神社なんて知りもしなかった。
それでも、もし。もし、ジャックが死んだのが北野のせいだとしたら。
吐き気がする。音楽で頭を埋める。好きな曲を流し続ける。
また、あの臭いがした気がした。

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