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SS『地名が逃げた』

 地名が逃げた。きっと嫌気がさしたのだろう。ありとあらゆる看板から各地の地名は逃げてしまった。交差点に差し掛かっても青い板が掲げられているだけになった。通っていた病院はただの『診療所』になってしまった。地域を表していたものは全てが消えた。

   ここが何駅かもわからない。

 目的地を伝えたとしても、私たちはこことそこの違いを表現出来なくなっていった。

 それは今まで言葉に頼りすぎていたからだ、なんて結論が現れる。だけど本当にそうだろうか。文字としての地名が消えて何ヶ月もたった今、人々の中から地域という感覚が消えていったように思うんだ。

 今ここ、しかなくなっている。

 いや、本当はそうでもない。今までの感覚であそこもあっちもある。だけどなにか、なんだろうな、この心地良さを伝えることが出来ないのが悔しいと思う。

 地名たちはどこに行ったのだろう。何故居なくなったのだろう。

 地名が無くなったことで、差は無くなっただろうか。その土地にいるだけでやばい人と思われることはなくなっただろうか。

 地名たちは、その土地への差別を背負ってきた。言葉が生まれた時からきっと、長い間、晒されてきただろう。だから、逃げたくなったのかもしれない。

 どこにも街の名前がない。

 私は今日も山の中で地名たちにご飯を与える。初めは何を食べるのか分からなかった。だから、私はなんとなく喋り始めた。聞こえてるのかもわからない。ただぼやぼやと揺蕩っているそれらを見ながらその日あったことを話していた。

 電車でめっちゃ髪の長い人を見たよ。

 全部の葉っぱが落ちたらどうやって光合成するんだろう。

 友達の妹が産まれたんだけど、猿にしか見えなくてかわいい。

 どれもこれも意味の無い話。会話とは言えない。ただ、私の口から漏れ出す独り言。

 それが何になったのかわからない。けれど、地名たちは少しずつ私の周りに集まってきてくれた。地名というものの扱い方なんて分からないけれど、きっと懐いてくれたのだろう。

 毎日毎日通っていると彼らが何かにくっつきたいことが分かった。だから私は新しいノートを買ってきて、膝の上で広げた。すると彼らはそこに飛び込み並んだ。全ての地名が無くなった世界で彼らは小さく、私のノートに並んでいる。なんてこともなく、そこに居た。

 地名が逃げた。

 だからってどうにもならない世界の中で、私は生きていく。

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